【鳥兜】斎藤元彦知事問題の本質、見誤るべからず

啓文社(編集用)

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本日は最新刊『権力を動かす権力の構造~ディープステート(DS)論を超えて~』より、巻頭コラム「鳥兜」をお送りいたします。

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 今年は兵庫県民のみならず、日本国民 全体が斎藤元彦兵庫県知事に振り回される一年となった。斎藤氏の不適切行為に ついての「外部通報」で“炎上”したかと思えば、その斎藤氏が通報者を処分、その後に通報者が自殺したことでさらに“炎 上”。その結果、斎藤氏は辞任したもののその直後の出直し選挙で当選。選挙期間中にはマスメディアの斎藤バッシング批判こそが不当だと今度はメディアたたきの“炎上”が発生。挙げ句に、斎藤氏当選後には選挙期間中の「広報戦略全般」 を斎藤氏から有償で受注したことをネット上で誇示するPR会社社長が現れ、公職選挙法違反疑惑が一気に浮上し、再び “炎上”した。

 この一連の問題については様々な論点、視点があり兵庫県民のみならず多くの国民が混乱したことであろう。ただしここで重要なのは、斎藤氏は単なる一私人ではなく、県政のトップである知事という要職にある公人・政治家なのだとい う一点だ。

 そもそも、これだけ炎上が繰り返されるのは斎藤氏が知事だからだ。にも関わらず、上記の一連の炎上騒動においてこの一点が、どんどん軽視、無視されていった。斎藤擁護論者は「知事としてのあるべき振る舞い」は一顧だにしない。斎藤批判においても法的責任論が一般的で 「知事としてのあるべき振る舞い」には議論が (仮にそれを暗黙の前提としているのだとしても) 及ばない。しかし、その視点を欠いた言説はすべからく不適切であり控え目に言ったとしても著しく不十分だ。

 そもそも政治家に求められる姿勢は「李下に冠を正さず」だ。この言葉は、 君子(高潔な人格者) の振る舞いを謳った詩集「君子行」の中の詩の一節であり、「李(すもも)の木の下で冠を正せば、李泥棒と疑われる。だから君子たる者、疑われ るような事をしてはならない」という意味だ。要するに疑惑を導くような者は君子たり得ぬという話だ。だから知事 (Governor)たるもの君子たらねばならない以上、実際の悪事の有無はさておきその嫌疑があるというだけで知事として失格だ──となるわけだ。

 だから、SNSで散々言われたこと (怪文書だの通報者の不倫だの等)が仮に全て真実であっても斎藤氏に深い疑惑がある以上、しかも、その疑惑について潔白を 主張するにあたって「能面」のような表情に終始し、木で鼻を括ったような言葉だけを発し、最終的には全て弁護士に聞い て下さいとだけ口にする斎藤氏の態度は「李下に冠を正さず」の視点から言うのなら完全に知事として失格となるのだ。

 にも関わらず批判者も擁護者も皆、“李”を実際に盗んでいたかどうかを「証明すること」だけに議論を集中させた。 実に愚かしい。それが「裁判」ならいざ知らず、我々が住むこの現実の社会では悪事が証明されようがされなかろうが怪しいと思うだけで仕事の依頼を断念することは許容される、というよりむしろ公正正義の視点から「推奨」すらされるのだ。

 だから斎藤氏が知事である以上、彼の正当なる弁護などほぼ絶望的に不可能なのだ。にも関わらず、斎藤弁護論が後を絶たないのは「知事なんて別に立派な君 子でなくったっていい」という気分が世間的に共有されているからだ。

 だからこそ我々がもし、公序良俗の保持や日本における文明を実現せんとするのなら、斎藤批判を通して「知事なんて李を盗もうが何しようが構わねぇ、バレなきゃいいんだよ」なる気分を潜在意識下で濃密に共有する「大衆人」に対して徹底的に「批判」の眼を向けねばならないのである。この眼を持つ者だけが真っ当な斎藤論を、それが批判であろうが擁護であろうが展開し得るのである。

 


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コメント

  1. 空蝉 より:

    まさに斎藤氏は「大衆人」の象徴。拝金ポピュリズム、所謂B層の象徴である。

    伝統・文化は「大衆人」によって破壊されるのだから、斎藤氏は保守派の敵と言えよう。加えて政策も、LGBT推進・移民政策推進・朝鮮学校支援といかにもリベラルである。

    中国共産党の機関紙である人民日報にも登場しているにも関わらず、所謂ビジネス保守層は公務員(兵庫県庁職員)叩きに明け暮れる。小泉・竹中政権から、日本人は何も学んでいないのではないか。

    斎藤氏は答弁もいまだに官僚そのものであり、本来的に知事に相応しい説明能力が皆無なのだろう。衆愚政治、ここに極まる。

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