この頃の米メディアとトランプ大統領の泥仕合を見ていると、つくづく「ポスト・モダン」の成れの果てというのはこういうものなのだろうかという感慨を深めざるを得ません。
去る8月16日、自身に対して都合の悪い報道を「フェイクニュース」と攻撃するトランプ大統領に対抗して、ボストン・グローブ紙の呼びかけに応える形で、全米の350紙が報道の自由の必要性を訴えて、一斉に「メディアは国民の敵ではない」といった趣旨の社説を掲載したといいます。なかでも、ニューヨーク・タイムズ紙は、「気にくわない真実をフェイクニュースと主張し、記者を国民の敵ととがめるのは民主主義にとって危険だ」として、約70紙の社説を紹介するなど異例の特集を組んだとのことです。
ただ、ここで注意すべきなのは、このニューヨーク・タイムズの主張は、その「視点」さえ変えてしまえば、簡単にトランプ陣営の主張に転換できてしまうという事実です。たとえば、「フェイクニュース」を「反知性主義」と、「記者」を「ポピュリズム」と書き換えてみてください。すると、それはそのまま、「気にくわない真実を反知性主義だと主張し、ポピュリズムを国民の敵ととがめるのは民主主義にとって危険だ」というトランプ陣営の主張=メディア批判の言葉に書き換わってしまうことが分かるでしょう。
つまり、メディアもトランプ陣営も、自らを「民主主義」の保護者(救世主)に擬して、自分の「敵」を批判しようとする構図は、お互い様だということです。
実際、主要メディアの言葉を信じないトランプ支持者のなかには、最近、正体不明のネット投稿者「Q」の言葉を信じる人間が急増しているといいます。「Q」とは、昨年10月に突如ネット掲示板に登場し、トランプ大統領を熱狂的に擁護する一方、多くの主要メディアが悪の秘密結社と関係しているという陰謀論を繰り広げる正体不明の投稿者らしいのですが、驚くことに、すでにネット上には、「Q」とは別に、その「Q」の主張を「真理」として信じ、解釈しようとする「QAnon」という陰謀論集団が形成されているらしいのです。
一部報道によれば、ユーチューブの「Q」関連の動画は13万件あり、月に800万以上のアクセスがあるサイトもあるそうですが、それらを閲覧している「Q」の信奉者たちは、「Qは政府内の機密情報を知り得る人物で、嘘と、不正にまみれた主要メディアに抗して、この世界の救世主であるトランプ氏の真実を伝えている」と思い込んでいるというのです。
さすが、「宗教国家アメリカ」(森本あんり)だと言いたくなりますが(しかし、規模が違うにしても、憶測と、それによる批判、匿名による罵詈雑言が行き交う、この国のネット状況も似たようなものなのかもしれません)、考えてみれば、この基準が溶解した「ポスト・トゥルース」の時代の醜悪なドタバタ劇を、今から100年以上も前に正確に「予言」していた哲学者がいました。フリードリッヒ・ニーチェ(1844―1900)です。
ニーチェは、あるがままの「事実」などは存在せず、存在するのは「ただ諸々の解釈だけ」だと言います。「解釈」とは、生成流転するこの世界の一部を切り取った図式であるがゆえに、どうしても、ある「視点」からの「遠近法」、つまり〈虚構=仮象〉にしか成り得ないというわけです。そして、あらゆる「解釈」は、ただ自分自身の「力の維持と昂揚」に役立つ限りで採用されているにしか過ぎず、それゆえ「真理」の標識は、ただ「権力感情が上昇」するか否か、つまり、支配にとって有用であるか否かによって決定されると言うのです。
これが、ニーチェによる、かの有名な「力への意志」説ですが、だとすれば、これほど見事に、現代社会の性格を描いている言葉もないと言うべきかもしれません。ただ、問題は、ニーチェが描き出している状況が、ほかならぬ近代の「ニヒリズム」だという点にあります。『力への意志』の冒頭、ニーチェは書いていました、「私が物語るのは、今後の二世紀の歴史である。私が記述するのは、やがて来るもの、つまり、もはや別様には来たりえないもの、すなわち、ニヒリズムの到来である」(『力への意志』渡邊二郎訳)と。
しかし、それならやはり、この時代において頼れるのは保守的な態度以外のものではないと言うべきでしょう。エドマンド・バーク以来、「保守」は「偏見」(pre-judice=前もっての-判断)を語ったことはあっても、「真理」を語ったことはありません。言い換えれば、常に自分の「解釈」が一つの「文化」による「解釈」でしかなく、それが普遍的に世界に当て嵌まるなどと思い上がることはなかったということです。そして、だからこそ「保守」は、その一方で、誰より深く「歴史」に眼を配ってきたのではないでしょうか。
べつに、私たちが語る言葉が絶対的「真理」である必要はない。が、「嘘」だけが行き交う世界に、「超人」でもない普通の「人間」が耐えられるわけもない。とすれば、何が「人間」を支える持続的な言葉となり、何が時代の中で消え去っていく現象でしかないのか、それを「歴史」のなかに見極めようとする姿勢が、どうしても必要になってきます。
そして、ニーチェが言うように、どんな「解釈」も一つの「誤謬」でしかないのだとすれば、私たちは、そこで語られた「内容」以上に、その「語り口」に目を向けるべきだということにもなるでしょう。自分の語っている「内容」に対して、その人が、どのような距離を担保し、それとどう付き合っているのか。言葉の「本当らしさ」は、語られた「内容」のなかにではなく、それを語っている「調子」のなかにしか示すことができません。
とすれば、「ポスト・トゥルース」の時代にこそ必要なのは、「解釈」の整合性を担保する「論理」と、その「論理」を展開していくときの「調子」とを結びつけ、その「全体感」から一つの判断を下す力、つまり「常識」の力だということになります。
昔なら、こんなことは言うまでもないことだったのでしょう。が、ここまで「ニヒリズム」が進行してしまうと、敢えてでも「常識」の在処を問わなければ、私たちの「判断」を守り切ることはできません。時代はそこまで劣化してしまったということです。
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