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【浜崎洋介】「就活ルール廃止」を批判する――「教育」とは何か

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 最近は悪いニュースが続きますが、「就活ルール」の廃止検討もその一つです。

 去る9月3日、経団連の中西宏明会長が、平成33年卒業の学生から採用活動開始時期などを定めた「就活ルール」を廃止する考えを表明しました。大学卒業の1年前に説明会が解禁されるといった現行ルールを廃止して、全てを企業の自主性に任せたいとのことです。

 「自主性」と言うと聞こえはいいですが、要するに、「青田買い」から「早苗買い」「苗代買い」「種もみ買い」まで、企業による学生の獲得を何でもOKにしたいということです。

 背景には、経団連ルール(紳士協定ですが)に縛られずに人材獲得に動ける外資系企業やベンチャー企業に比べて、経団連加盟企業が出遅れてしまうことに対する焦りがあるとのことですが、すでに中西発言を支持する声は方々から上がり始めています。

 たとえば麻生太郎財務大臣は、中西発言を「一考に値する」とした上で、「なんで一斉にやっているのか不思議に思っていた」と言い、世耕弘成経済産業大臣も「柔軟な働き方を認める観点から、就活にはいろんな形があるべきだ」などと発言して、中西発言を後押ししています。また、外資やベンチャーと競合する大手の商社やメーカーからも、「就活ルール廃止」についての評価の声が上がると同時に、一部の学生からも、「早めに動きだせるようになるのは別にかまわない」などの積極的意見も出始めているとのことです。

 しかし、言うまでもないことですが、私たちは、何も一部の外資や大手企業のためだけに、「社会」を作っているわけではない(実際、中小企業や建設業や大学からは「ルール廃止」に反対の声が上がっています)。いや、大学にしても、大手企業が目をつけている一流大学だけが大学だというわけではないし、一流大学の学生にしても、外資やベンチャーや商社に行く学生だけが学生というわけではない。そして、そもそも「教育」という営みそれ自体が、一部の「エリート」や、企業のためにだけあるものではありません。

 「就活ルール」に穴があって、外資と国内企業と大学との間で調整がつかないというのなら、むしろ「規制」を強化してでも調整(折り合い)をつけるべきで、その努力を放棄して、企業の「自由」を最優先するという発想自体が、いかにも「教育」のない人の発想です。

  ただ、そう言うと、決まって次のような反論が出てくることは承知しています。

 たとえば、経済同友会の小林喜光代表幹事は、就活の時期が早まれば学生が勉強に集中できなくなるのではないかという疑念に対して、「甘い考え。社会人は勉強しながら業務もこなさなければならない」、「机上の勉強をするだけの人材を企業は求めていない」などと答えたといいます。しかし、この答えそのものが、「社会」と「企業」の違いも弁えられない経済人の、いかにも「机上」の「甘い考え」をさらけ出してはいないでしょうか。

 なるほど、「社会人」は、たしかに「勉強しながら業務もこな」しています。が、それは文字通り、大人の「社会人」であればこその話で、それを18~22歳の「学生」に強いること自体の「無理」や、それがもたらす「悪影響」については思いが至らないらしい。

 いや、その「社会人」にしても、もし彼/彼女がいい仕事をしているのだとすれば、それは、その人の知識や処理能力とはまた別の、「思考力」あってこそのものだということは言うまでもありません(実際、知識と処理能力だけで、いい仕事ができるなどということがあり得ないことは、「社会人」であればだれでも知っていることでしょう。)

 では、その人間の「思考力」の基盤はどこで作るのか。それこそ、大学を措いて他にはありません。ある目的に向かって走る「処理能力」と、その目的自体の正否を考える「思考力」とは違いますが(かつてM・ウェーバーは、それを「目的合理性」と、それ自体価値がある「価値合理性」の区別として論じたことがあります)、まさに、その「思考力」は、一つの目的に縛られずに試行錯誤した経験からしか齎されません。そして、人生に決定的な痛手を負うことなしに、そんな試行錯誤が許される時間、それは学生時代以外にはないのです。

 またそこにこそ、ある目的に向かって最適な走り方を教える「企業研修」と、その目的自体を自分で見つけ出させようとする「大学教育」の違いがあるのです。

 たとえば、経済活動のなかでモノを売り買いする場合、私たちは、その商品の目的(効用)について計算することができます。その商品がリンゴなら、食べたときの味わいと、その満腹感を。あるいは鉛筆なら、それを用いることによってもたらされる結果(メモが書けるなど)について、私たちはある程度まで予測することができるのです。

 しかし、「教育」は、そうはいかない。もし、それを受ける前に(教育を買う前に)その結果(効用)が予測できてしまっているのだとすれば、それは既に「教育」ではない。

 なぜなら、「教育」とは、圧倒的な「他者」(師、友人、恋人、書物)と出会うことによって、自分自身の思い込みを壊し、自分自身の狭さを思い知り、その結果として、自分が知らない自分を引き受けていくための「贅沢な時間」にほかならないからです。

 たいして「教育」がない企業人には分からないでしょうが、実は、目的も定まっておらず、何者でもあり得ない三、四年を、ただ「思考」しながらもち堪えるという経験がどれほど苦しいことなのか。そして、その「苦しさ」に持ち堪えて、自分で自分の目的を見出したという経験が、その後の人生にどれほどの自信と余裕を与えるものなのか。しかし、だからこそ、人生の一定期間において、若者には、敢えてでも〈モラトリアム=執行猶予〉を強いる必要があるのです。目的に従属しない「思考」を訓練しておく必要があるのです。

 なるほど、今日の「大学教育」が壊滅的だということは否定しません。が、それは、「大学教育」の理念が崩壊しているからではなく、逆に、その「大学教育」の理念を無視した「大学改革」が横行しているからにほかなりません。「教育」という営みを新自由主義的な「目的」に晒してしまっているからにほかなりません。その事実を無視して、これ以上「教育」を壊してしまうことは、「社会」に自滅以外の結果をもたらしはしないでしょう。

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