私が学生だった2000年代の政治学の授業では、サミュエル・ハンチントンという政治学者の『文明の衝突』(1996年出版)という本がしばしば取り上げられていて、学生にも人気がありました。ハンチントンは、「文化」こそが冷戦後の世界を形作るはずで、文化の違いや共通点に沿って、国々がまとまったり対立したりするようになるだろうと予想していた人です。
彼の言う「文明」は、日本人が「文明の利器」というときの「文明」ではなく、ほぼ「文化」の意味です。そしてそれは主として「宗教」に基礎を置くもので、世界は西欧キリスト教文明、イスラム文明、東方正教会文明、仏教文明、ラテンアメリカ文明、ヒンドゥー文明、アフリカ文明、中国文明、日本文明というふうに多極化していくだろうと主張されていました。
「9・11」のテロがあったあたりからは、欧米とイスラムの対立を予言した書だと言われることもあって、よく言及されていたんですね。またハンチントンはその後、『分断されるアメリカ』(原題は”Who are we?”)という本を出して、アメリカへの移民の流入がこのままどんどん続くと国内に深刻な対立が生じるであろうと予想していて、それがトランプ政権の誕生にもつながるわけなので、今でも「預言者」のように言われることがあるそうです。
その『文明の衝突』が(書籍の前に)論文として発表されてから25周年に当たるということで、ハンチントンの弟子でもあり論争相手でもあったフランシス・フクヤマによる回顧記事(英文)が出ていました。
Huntington’s Legacy
このフクヤマという政治学者は『歴史の終わり』(1992年出版)という本を書いたのが有名で、これも私が学生だった頃はよく話題になっていました。内容はハンチントンとは対照的で、ハンチントンが自由民主主義すらも「西欧のキリスト教文化の賜物」であって普遍的なものではないと主張したのに対し、フクヤマはその普遍性を主張して、冷戦の終結は「自由民主主義」の最終的な勝利を意味し、人間がつくりだす政治システムや政治思想がこれ以上のものに発展することはないだろうと唱えました。
つまりハンチントンとフクヤマの両者は、冷戦後の世界がどうなるかを見通す上で、「古くからある文化に基づいて分裂が深まっていく」と考えるのか、それとも「自由民主主義が最強であることが分かったのだから、この最終回答に向かって世界は収斂していく」と考えるのかという、2つの大きなビジョンを代表していたとも言えるわけですね。
で、上記のフクヤマによる回顧記事は前半部で、「今のところハンチントンのほうが正しかったようだ」と書いています。自由民主主義に収斂するどころか、自由民主主義国は減っていて、しかも中国・ロシアのような権威主義的国家がますます力をつけているし、欧米で台頭しているポピュリズムも、フクヤマの考える自由民主主義(リベラルな民主主義)にとっては脅威だからです。
記事の後半の方ではまた自由民主主義の普遍性を説きはじめたりするのですが、フクヤマもこの記事の中で認めているのは、「文化」というものが人間の政治や社会を形作る要因としていかに重要であるかということで、その点を一貫して強調し続けたところにハンチントンの最大の功績があると語っています。
フクヤマも指摘しているのですが、私は、ハンチントンの文明論は「宗教」に重きを置きすぎている点と、「国民国家」の枠組みを少し軽視していて、あたかも宗教が同じであれば国境を超えてまとまっていくかのように論じられている点に、難点があると思います。しかしそれでも、フクヤマのような「自由民主主義」無敵論よりは示唆の多い議論だと思いますし、西側が冷戦に勝利した当時から欧米の長期的な衰退傾向を論じたりしていて、先見の明もあると思います。
フクヤマが今回書いている点で同意できるのは、「宗教」よりも少し広い意味での「アイデンティティ」をめぐる分裂や対立に着目したほうが、今の世界を柔軟に解釈できるのではないかという点です。たしかに『表現者クライテリオン』で論じている「ポピュリズム」も、労働者のアイデンティティ承認が失われたことへの反動とか、移民とのアイデンティティをめぐる軋轢だと考えることができますね。
しかし振り返ってみて思ったのは、冷戦が終わると同時に2つの大きな世界観が政治学者から提示され、それをめぐって長く論争が行われるというのは日本ではあまり見られないことで、その点でアメリカのほうが健全かも知れないということです。
冷戦終結からトランプ誕生までは言わば「楽観的グローバリズム」の時代で、今また(米国を含む)世界は別の段階に進もうとしているとも言えるわけですが、奇しくも平成の始まりと終わりがだいたいこれに一致しています。我々日本人も今回は、歴史の流れを大まかに捉えるような議論を、しっかりと積み重ねる努力をすべきなんじゃないでしょうか。
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