少し前の話になってしまいますが、先月号の『文藝春秋』(11月号)に、文芸評論家の伊藤氏貴氏(明治大学准教授)による「高校国語から『文学』が消える」というショッキングな記事が載りました(ちなみに、先月号の『文藝春秋』は、「亡国の移民政策」批判にしろ、日本の農業を破壊する「種子法廃止」についての山田正彦元農水大臣による批判にしろ、『表現者クライテリオン』の11月号―ネオリベ国家ニッポン特集――とも重なる主題が盛りだくさんで、読みごたえがありました)。
伊藤氏によれば、「戦後最大の『国語』改革がいま行われつつある」とのことで、その「改革」の中心にあるのが、「大学入試改革」と、それに伴った「高校の指導要領改訂」だというのです。前者は、マーク式だったセンター試験に代わる後継テストで、新たに記述式の問題が加わるというものですが、それだけならいいものの、問題なのは、それに伴って、高校国語に新たに「論理国語」と呼ばれる謎の科目が加わってくるということです。
調べてみると確かにそうで、現行の高校国語では、共通必修科目の「国語総合」(4単位)が、「現代の国語」(2)と「言語文化」(2)に分けられ、選択科目である「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」、(4)「古典A」(2)、「古典B」(4)が、「論理国語」(4)、「文学国語」(4)、「国語表現」(4)、「古典探究」(4)に変更されるとのことです。
つまり、今回の国語改革の主眼は、現行の「現代文A・B」と「古典A・B」を削って、「国語表現」の時間増と「論理国語」の新設に充てるというものです。簡単に言ってしまえば、「文学」中心の国語教育を改め、「文章と図表や画像などを関係付けながら、企画書や報告書を作成する」時間、あるいは「紹介、連絡、依頼などの実務的な手紙や電子メールを書」いたりする時間(国語表現)を増やし、「論理的な文章や実用的な文章を読み、その内容や形式について、批評したり討論したり」(論理国語)する時間を新設することで、「実学」中心の国語教育に切り替えていくということです(新学習指導要領より)。
しかも、伊藤氏によれば、「論理国語」には「文学はもちろん、文学評論も入れてはならないというお達し」らしく、「入試改革のことを考えると、ほとんどの高校が『論理国語』を選択する」以上、中島敦の『山月記』や漱石の『こころ』に代わって、「駐車場の契約書や、交通事故発生件数のグラフ」を読まされる可能性が出て来たとのことです。
この国語改革の背景には、OECD加盟国で行われる共通テストのPISAで、日本の子供たちの実用文読解の記述式問題の正答率が下がったことがあるようですが、しかし、伊藤氏も言うように、「そもそもPISAで得点の高い国が、学校でそのための対策の授業をしているなど聞いたことがない」どころか、文化大国であるヨーロッパでは、「『国語』の授業で哲学書を読んだりしている」のです。日本人の、この慌てふためき様は、むしろ自らの「文化」に対する「自信」のなさをさらけ出しています。
いや、むしろ、そんな慌てふためいた「改革」こそが、日本人の「読解力」を下げている可能性が大きいのですが…、そんなことも考えられないほどに、今の経済界・政治家・文部官僚の「読解力」は壊滅的であるということなのでしょうか。
しかし、そもそも「実用文」の「読解力」を上げたいのなら、それこそ社会・公民、あるいは理科などの教科で鍛えればいいだけの話ではないでしょうか。「読解力」低下の責を「国語」に押し付けようとすること自体が、エリートたちの「短慮」と「読解力のなさ」を示しています。断言してもいいですが、「論理国語」を新設した程度のことで、本質的な「国語力」は絶対に上がりません。少なくとも、真の意味での「読む力」は上がりません。
私自身の経験から言えば――私は13年間、塾で英語と国語を教えてきました――、「国語」ほど、できる生徒はできて、できない生徒はどんなに頑張ってもできないという教科は他にありません。と同時に、できる生徒に限っては、学校教育さえほとんど関係がない。彼らは、放っておいても、どんどん好きな本を読み漁り、勝手に「読解力」をつけていきます。逆に言えば、「読解力」というのは、その人の「生き方」に直結している分、学校教育程度のもので、すぐに「力」がつくほど甘くはないのだということです。
では、「国語教育」に意味がないのかと言えば、そんなことはありません。「国語教育」の意味は――漢字・慣用句・文法などの習得を除けば――放っておけばまず間違いなく触れない「国語」の世界に、子供たちを触れさせておくことにあります。中島敦『山月記』しかり、漱石の『こころ』しかり、森鴎外の『高瀬舟』しかりです。――私などは、そこに谷崎潤一郎『刺青』や、三島由紀夫『憂国』など「危ない作品」も入れたいところですが――。
たとえば、それは、理科や数学や社会のことを考えれば分かりやすい。おそらく、理科に触れていなければ、今の私が、何の苦もなく天気予報を理解していたのかは怪しいですし、あるいは、数学で微分積分の概念に触れていなければ、今の私の「無限」のイメージは違うものになっていたでしょう。また、世界史に触れていなければ、16世紀と17世紀の違いを、今のような形でハッキリとイメージすることは難しかったかもしれません。
国語もそれと同じ事です。漱石の『こころ』に触れていない人間が、近代人の「内面描写」がどのような高みに達したのかを想像するのは難しいし、森鴎外や中島敦に触れていない人間が、漢文脈でしか書きえない日本人の「生き方」があるなどとは考えることもないでしょう。となれば、「国語」の拡がり・深さについての国民のイメージもまちまちになっていき、結局、何が「高級な国語」で、何が「高級ではない国語」なのかの規準――つまり、日本語に於けるは正統な「型」の概念―――は曖昧になっていかざるをえません。
これはよく言われることですが、「型」(規準)がない世界では、「型破り」(基準を超える)という概念もなくなります。残るのは、ただ溶けた氷の様に横の方にズルズルと広がっていく「型なし」(何でもあり)の感覚だけです。つまり、日本語において何が「偽物」で、何が「本物」なのかを判断する規準が溶けていくということです。味も素っ気もない「実用文」を読み取れる力と、目の前の日本語が「偽物」なのか「本物」なのかを判断する力と、政治家や官僚たちは、どちらの方が私たちの「生きる力」を育てると考えているのでしょうか。
果たして、「規準」の手触りを知らない人間が「上」にいると、その害を被るのは「下」になります。それは、「消費増税」も「移民政策」も「種子法廃止」もそうです。そして、この度の「国語改革」も例外はありません。日本は、いつから、こんなに不条理で嫌な国になってしまったのでしょうか。「無念の戦後史」(西部邁)とでも言うしかありません。
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