【柴山桂太】常識とは酸素のようなもの

柴山桂太

柴山桂太 (京都大学大学院准教授)

『表現者クライテリオン』の最新号が発売になりました。今号は特集が二本立てになっています。

第一特集は防災論。平成の三〇年間は大きな自然災害が相次ぎましたが、そのたびに、日本社会が抱えるさまざまな脆弱性が露わになりました。この脆弱性はどこから来ているのか。どう克服するべきか。常連執筆陣に加えて、今号では加藤尚武、村上陽一郎、志方俊之の各氏にご寄稿頂いています。

第二特集は沖縄論。藤原昌樹、宮城大蔵、前泊博盛の各氏の論考に加えて、恒例の文学座談会も沖縄文学(大城立裕『カクテル・パーティー』、目取真俊『平和通りと名付けられた街を歩いて』)を取り上げています。

この座談会、シンポジウムの後で訪れた与那国島で収録したのですが、前日からの「熱」がそのまま流れ込んでいた上に、対象となった作品に批評を誘発する力があったので、とても盛り上がりました。

連載の方も、各氏とも四~五回目に入って力作が揃っています。たとえば伊藤貫氏のタレーラン論、古川雄嗣氏の北海道論、佐藤一進氏の歴史叙述論、松林薫氏の新聞論は、どれも世間一般に流布されている「通説」の見直しを迫る、興味深い内容になっています。

これまで特集では、ナショナリズムやポピュリズム、新自由主義など現代社会の全体状況に関わる特集を組んできました。

今号は防災や沖縄の基地問題など、より具体的な話題を扱っていますが、方針が変わったわけではありません。思想や古典解釈の議論を積み重ねつつ、現実の政治問題についても発言していく。このスタイルは今後も維持していきます

ただ来年は、より具体的な問題を取り上げる機会が増えるかもしれません。国内外の混迷がいよいよ深まってきたからです。

実際、世界を見渡しても来年が明るい年になりそうな気配はありません。米中貿易戦争の負の影響はこれから本格的に現れます。いまは下手に出ている中国も、いずれ態度を硬化させることになるでしょう。来年は、今年以上に国際情勢が不安定化するものと思われます。

欧州ではブレグジット交渉が思うように進まず、フランスやドイツの混乱も大きくなってきました。ドイツ銀行など主要金融機関の経営をめぐる悪い噂も飛び交い続けています。

リーマンショック後の景気拡大がピークを過ぎたことに加えて、これらのリスク要因が重なり、株価の下落も始まりました。この状況で、日本は消費税増税を決行しようとしている。『別冊クライテリオン 消費増税を凍結せよ』で多くの執筆者が懸念していた、悪いシナリオが現実化しそうな雲行きです。他にも、芽吹いている危機の前兆を挙げていけばキリがありません。

こうした問題の一つ一つにアンテナを張ることはもちろん重要です。その道の専門家の意見を聞くことも必要でしょう。しかし、目の前の出来事を追っていただけでは見えてこないものがあるというのも事実です。

今号の連載で野中郁次郎氏が、不確実性の時代には歴史や古典に学ぶことが重要になると書かれていました。その中でジョン・L・ギャディスという冷戦史の大家が書いた『大戦略論』(村井章子訳、早川書房、二〇一八年)が面白いという紹介だったので、私も読んでみました。

この本は歴史書や哲学・文学の作品を素材に、戦略とは何かを論じたものですが、冒頭に興味深いエピソードが出てきます。

ある心理学者が、世界の政治について専門家二八四人が行った二万件を超える予測が、当たっているかどうかを確かめた。すると、当たる予測にはある共通点があることがわかった。

結論ありきで強気の自説を展開するタイプ、テレビのトークショーなどでも持て囃されるタイプの予測は的中率が低い。歯切れがいいので論争に強く政策担当者にも重宝されますが、その手の予測は「チンパンジーのダーツ投げ程度」にしか当たらないのだそうです。

対照的に、的中率が高いのは自己批判的にものごとを考えるタイプ、状況の変化に応じて考え方を切り替えていくタイプです。この手の議論はすっきりと分かりやすくはないのでトークショーのゲストには招かれないし、政策担当者も助言に耳を貸さない。つまり世間受けは悪いのですが、調べてみると予測が当たっていることが多いのだと言います。

ここから著者は、知性とは「二つの相反する考えを同時に持ちつつ、しかもきちんと働く」能力だとしています。戦略とは、そのような動的な知性に根ざしたものでなければならない。しかし二つの相反する考えを、知性はどう調整しているのか。そこで著者が持ち出すのが「常識(コモンセンス)」の役割です。

「常識」とはわれわれの誰もが普通に持っているはずのもの。日常生活で得られた経験と知恵であり、柔軟性です。ところが、と著者は言います。権力の座に就く人たちにはどういうわけかこの柔軟性に欠けている。

状況に応じて手段を調整することなど、普通の人が毎日のようにやっていることなのに、どういうわけか指導者と呼ばれる層がその能力を発揮できない。そして自らの信念とやらに従って、まちがった戦略に固執して国を危険にさらす。「してみると、常識とは、高く上れば上るほど薄くなる酸素のようなものかもしれない。」(37頁)

最近は戦略論がブームで、政治やビジネス、スポーツの世界でも戦略が語られます。しかし、優れた戦略というのは人を驚かすような見事な理論で飾られたものでも、ごく一部の専門家でなければ理解できない代物でもない。むしろ、その手の議論は危ないのであって、真に優れた戦略は「常識」を備えたものである。ただ、「常識」は多面多層で時に矛盾しているので、それを表現しようとしても、すっきりと分かりやすいものにはならないのです。

また「常識」は日常の小さなスケールでは発揮されることが多いのに、国家や社会のような大きなスケールになるととたんに発揮されなくなるとも言っています。しかも大きな問題になると「体面を汚すとか評判を落とすことをおそれるようになる」ので、状況が悪くなったからといって当初の計画を捨てられなくなる。歴史はそうした失敗例の宝庫です。

では、失敗を避けるにはどうすればいいのか。歴史や古典に学ぶことだ、と著者は言います。どんな場合にうまくいき、どんな場合にうまくいかないのか。互いに矛盾した考え方のどちらを取り、どちらを取らないのか。その直観を鍛えるべく、自分自身を訓練することだ、と。

実に真っ当な考え方だと思います。不確実性の高まる時代に、古典の価値が高まるのもそれが理由でしょう。これから状況はますます複雑で読み解きがたいものになっていきます。しかし、そのような時代であればこそ、国民の真の「常識」が問われることになるのだと思います。

 

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