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【施光恒】防災と「恩」の思想

施光恒

施光恒 (九州大学大学院教授)

『表現者クライテリオン』の最新号(2019年1月号)の特集「『思想』としての防災」に、「災害対策とリベラリズムの欠陥――時間や場所の感覚を取り戻すことは可能か」という拙文を寄稿しています。

十分に災害対策を行っていくために必要な精神の構えとは、一つは、将来世代の生活をおもんぱかる気持ちでしょう。将来の世代が安寧のうちに暮らせるかどうか、そのことに思いを馳せ、現在できうる限りのことを実施していく。それが当然ながら必要でしょう。

もう一つは、特定の土地に対するつながりの感覚です。土地への愛着の念といってもいいでしょう。ある土地をかけがえのないものだと思い、その土地の暮らしに愛着を抱く気持ちです。災害が起こったら、その土地から引っ越してしまえばいい、ということでは、十分な対策は望めません。

しかし、「リベラリズム」という思想が全盛の現在では、将来世代をおもんぱかる気持ちも、特定の土地に対するつながりの感覚も、社会のなかで失われがちであるのではないか。それが、災害対策が十分に取られないことにつながっていないだろうか。『クライテリオン』本誌ではそのようなことを書いています。

最近、パトリック・J・デニーンという米国の政治学者も『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(Why Liberalism Failed? (Yale University Press, 2018))という著書のなかで指摘していることですが、リベラリズムのものの見方は、人々から時間と場所の感覚を喪失させてしまう傾向があります。

社会契約論がそうであるように、リベラリズムは、人間を生まれながらにして理性や知性を備えているものとして捉え、国や社会は、そうした「理性的存在」としての人間が合理的に設計していくべきものとしてみなします。

合理的に設計された秩序(例えば、構造改革の果てに現れるグローバル市場を中心とする秩序)の下でこそ、人々は、最も効率良く、それぞれの幸福追求に没頭することができる。リベラリズムは、結局のところ、こういう具合に人間や国や社会を捉えてしまいます。

この見方では、文化や伝統といったものの役割が十分に認識されていません。本来であれば、人は、特定の土地の文化や伝統を身に付けていくなかで育まれていきます。決して、「生まれながらに」理性や知性、あるいは感性を備えているわけではありません。

例えば、日本人であれば、日本語という文化を学び、身に付けていくなかではじめて物事を考えたり、判断したりできるようになります。日本の習慣のなかで常識を身に付け、感性も磨きます。

しかし、リベラリズムは、文化や伝統の意義を認識しません。人間の自由は、グローバル市場のような合理的な制度やその下での合理的な社会でこそ、実現されると捉えてしまいます。そこでは、文化や伝統は、個人の選択の自由を制約してしまうものであり、改革すべきものだと認識されます。

デニーンは、このように、リベラリズム全盛の先進国の社会では、基本的に、各地の文化や伝統は軽視され、あるいは敵視され、普遍的で合理的だと思われるグローバルな政治や経済の秩序が目指されることとなる。その結果、時間や場所の感覚がリベラリズムでは失われてしまう。このように述べるのです。

これでは、災害対策など行われません。ではどうすればよいでしょうか。どうすれば、将来世代の生活の安寧に思いを馳せたり、特定の場所に強く愛着を抱いたりすることの大切さを実感できるようになるのでしょうか。

『クライテリオン』本誌のほうでは紙幅の都合で書かなかったのですが、私は、一案として、日本古来の「恩」の観念に着目し、この理念の意義をあらためて捉えなおしてみるのはどうかと思っています。リベラリズムに対する「解毒剤」を作るきっかけにできないかと考えています。

「恩」は、日本の道徳の重要な構成要素の一つです。米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかで、「恩」は日本の道徳の中心的理念だと指摘したことはよく知られています。

主に戦前に活躍した哲学者・川合貞一(慶應義塾大学名誉得教授)も、『恩の思想』(東京堂、1943年)のなかで日本の道徳体系における「恩」の重要性を指摘しています。川合は、若いころはドイツの哲学や心理学を学び、その後、時代状況もあってか日本人の思想や哲学を明らかにする作業も行っています。

川合によれば、とりわけ「恩」を感じるという意味での「感恩」の心の強調こそ、日本の道徳の特徴です。「恩」は中国の儒教にも、あるいは欧米の道徳にもみられない独自色の強い日本的価値の一つだと説明します。

中国の儒教の中心的理念は「仁」であり、四書などの文献には「恩」はあまり登場しません。特に、「感恩」はほとんどみられないとのことです。

また、個人主義的傾向の強い欧米の道徳には、「恩」の理念はなじみにくいと川合は下記のように論じます。

「…個人主義では、個人というものを以てほかに何ら俟つことなく、自ら創造するところの自主独立なものとみるのである。即ち、個人というものは、それ自ら完成しているものとみる」(『恩の思想』、39頁)。

そうであるゆえ、

「個人はいずれも社会に対し、他人に対して、何も別に負うているところとてない訳である。言い換えると、何人も社会に対し他人に対して恩を受けているという訳はないのである。そういう個人主義の考え方からすると感恩の感じなどというものの起こり得るはずはないのである。従って報恩の行為などというものの起こってくるということは全くあり得るものではないのである」(40頁)。

川合は、このように述べ、個人主義の強い欧米の道徳には、「感恩」、あるいはそれを前提になされる「報恩」の行為はなじみにくいものだと捉えます。

なお、興味深いことなのですが、環境倫理や世代間倫理といった文脈で、現代の欧米の倫理学者が日本の「恩」に着目することは少なくありません(例えば、K・S・シュレーダー=フレチェット/京都生命倫理研究会訳『環境の倫理(上)』晃洋書房、1993年、126頁)。

このことは、欧米の文脈では、「恩」の理念が一般的ではなく馴染みにくいものであると同時に、過去や将来の世代との相互依存の網の目のなかに人間が存在し、その関係性のなかで道徳を論じることの意義を欧米の人々も少なくとも知的レベルでは認めうることを示唆しているといえるでしょう。

「恩」の理念は、現代の日本人にとっても日常的なものです。「おかげさま」「お世話になっています」といった相互依存を前提とする言葉は日頃よく使われます。

若い野球選手がプロ野球チームに入団する記者会見で、お世話になった方々に恩返しをしたいなどと語る光景は現在でも普通です。

例えば、一昨年、日本ハム・ファイターズに入団することが決まった際に、清宮幸太郎選手(当時・早稲田実業所属)も、球団との入団交渉後の記者会見の席で「これだけ期待されて入るからには、一年目から結果を出して恩返ししたい」(『朝日新聞』(北海道本社版)、2017年11月17日付朝刊)と語っていました。

国文学者の上野誠氏(奈良大学教授)は、著書のなかで、日本社会では、キリスト教の「原罪」ならぬ「原恩主義」の道徳が伝統的だと述べています。つまり、生きとし生けるものはすべてつながっており、互いに支え合って生きているというふうにみる。それゆえ、人は万物に感謝して生きなければならない。そう考える社会だと指摘しています。

「恩」は同時代の他者から被る恩恵への感謝を求めると同時に、過去の人々から得た恩恵への感謝も求めます。これは将来世代へもつながります。

常識的なことですが、「恩」は次のように発想します。

今の我々があるのは、あるいは我々の暮らしがあるのは、過去の人々のおかげである。だが、過去の人々はもう亡くなっているのでその人々に直接、恩返しするわけにはいかない。その代わり、過去の人々が我々にしてくれたように、我々は将来世代(子孫)に対し、何か良いものを手渡せるよう努めるのだ。

例えば、「我々がいまここ(ある地域)に我々が住んでいられるのは、過去の人々の治水灌漑事業のおかげである」、あるいは「日本語で大学教育が受けられ、知的・専門的な会話を行うことができるのは、明治の人々が欧米から懸命に学び、日本語の翻訳語をたくさん作ってくれたおかげである」などという具合に、「恩」の考え方では述べることができます。

また、ここから、割と自然に、「だから我々も地域の子孫のために、水害対策などきちんと行っていかなければならない」、あるいは「次世代のために、日本語を守り、発展させていかなければならない」といった責任や義務の観念も導くことができるようになります。

「恩」の観念は、我々自身を特定の場所や時間のなかに位置づけられた存在だとみなすことを促すのです。これは、リベラリズムの生み出す恐れのある根無し草的で無責任な個人に対する解毒剤になりうるでしょう。また、災害対策が十分に行われる社会をどう作っていくかを考える際の手がかりともなるでしょう。

もちろん、「恩」の理念のなかには、現代の世の中には合わない要素もあるはずです。「恩」の理念を継承しつつ、どのように現代的に洗練し、発展させていくか今後、考えてみたいと思います。

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