【浜崎洋介】「AI神話」の嘘について―ウィトゲンシュタインと「信じる」こと

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

コメント : 6件

 こんにちは、浜崎洋介です。

 この頃は、「AIは人間を超える」だの、「AIが人間の仕事を奪う」だのという嘘をよく耳にしますが、つい最近、その嘘を否定する興味深い記事を読みました。数学者の新井紀子氏(国立情報学研究所教授)による「AIは先生に取って代われるか」(https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190213/0001.html)という論説記事です。

 新井氏は言います、「意味」を理解する能力を持たず、「確率と統計を用いるソフトウエア」にすぎないAIが、「先生」に取って代わるなどということはあり得ないし、もし、「先生をAIに置き換えたら、学校はAI未満の生徒を大量に生み出す機関に成り下がってしまう」だけだろうと。

 けれども、どうやら官僚やメディア関係者はそう考えていないらしい。たとえば経済産業省が推進する「未来の教室」プロジェクトでは、教育(エデュケーション)と技術(テクノロジー)を掛け合わせた「エドテック(Edtech)」なる概念が提示され、「先生不要のAI教育論」がまことしやかに唱えられているというのです。さらに、そのプロジェクト発表会に参加した記者などは、そこで示された夢物語に熱をあげているとのこと。

 しかし、AIに「意味」が理解できないということくらい、過去の議論を振り返れば、すぐに分かることでしょう。フッサールの現象学にしろ、ハイデガーの存在論にしろ、ソシュール言語学にしろ、フロイト―ラカンの精神分析学にしろ、ベルグソンの生の哲学にしろ、パースやジェイムズのプラグマティズムにしろ、とりわけ20世紀哲学は、「意味」という現象の「謎」をめぐって議論を積み重ねてきたのでした。

 なかでも、AI(数学)と「意味」との関係を考える上で興味深いのは、ウィトゲンシュタインによる「規則(意味)のパラドクス」の議論でしょう。たとえば、『哲学探求』において、ウィトゲンシュタインは次のように書いていました。すなわち、「私たちのパラドクスは、こういうものだった。『ルール(規則)は行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから』」(1部201節、丘沢静也訳)と。

 ただ、これだけでは何が何だかサッパリでしょうから、ここで一つ簡単な例を挙げておきます。「数列」という、一見「規則」的に見える数字の束です。

 たとえば、今、目の前に「2,4,6,8,10,…」と並んだ数があるとします。すると、私たちはそこに「+2」の規則(意味)を読み取って、次に来る数字を「12,14,16,18,20,…」と続けたくなります。が、そう続ける論理的根拠はない。なぜなら、「2,4,6,8,10,…」を見ただけでは、数列が「2,4,6,8,10,2,4,6,8,10,…」と続いている可能性を払拭できないからです(他の可能性も無限にあります)。そして、何より重要なのは、この不確定性は、「数列」を10桁確認しようが、100万桁確認しようが変わらないということです。

 というのも、どれだけ桁数を増やそうが、「数列」が有限の情報として示されている限り、その数列の「見え」と、無限に反復可能な「規則」(意味)との間には、どうしても埋まらない溝があるからです。要するに、この「数列」の議論が教えているのは、ある情報から一つの規則(意味)を読み出す行為の底には、必ず、私たちの「暗闇の中における跳躍」(クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドクス』黒崎宏訳)が存在しているのだということです。言い換えれば、「2,4,6,8,10,…」を見て、その後を「12,14,16,18,20,…」と答えてしまうのは、規則によってではなく、私たちの偶然的な〈傾向〉によってだということです。

 そして、この「規則(意味)のパラドクス」は、「言語」においてより如実になります。たとえば、「今日は寒そうだ」という言葉の「意味」は規則化できるでしょうか。

 もちろん、それは「今日の温度は低いと予測される」という文字通りの「意味」として読み取れます。が、文脈によっては、それは「窓を閉めてくれ」という意味になるかもしれないし、「コートを着て行こう」という意味になることもあります。あるいは、文脈が明確でない場合(そして、それは原理的に明確にし切ることはできないのですが)、どの「意味」が優勢になるのかは、文字通り「決定不可能」だということになります(そして、グレゴリー・ベイトソンの「ダブル・バインド理論」によれば、この「意味の決定不可能性」によってこそ、人特有の「精神分裂病」は発症するのでした)。

 要するに、全ての「意味」は、その都度の「言語ゲーム」の流れ(全体)のなかに現れるものであり、その限りで、「意味の規則」は存在しないのだということです。

 しかし、では、ウィゲンシュタインは、単に「世界に確実なものは一つもないのないのだ」という「懐疑論」を説きたかっただけなのでしょうか。

 そうではありません。なるほど、たしかにウィトゲンシュタインは、「規則のパラドクス」と呼ばれる懐疑論を徹底しました。が、その一方で、ウィトゲンシュタインが次のように書いていたことには注意したい。すなわち、「正しいとかまちがっているとかは、人々の言うこと(内容)だ。言語においてなら、人びとは一致している。それは意見(意味)の一致ではなく、生活形式の一致なのだ」(『哲学探究』1部241節、括弧内引用者)と。

 つまり、ウィトゲンシュタインは、「2,4,6,8,10,…」を見て、その後を「12,14,16,18,20,…」と続けるのか(そこに「+2」の意味を読むのか)、もう一度「2,4,6,8,10,…」と続けるのか(そこに「反復」の意味を読むのか)は原理的には決定不可能だが、しかし、それでも私たちは数字を使って何かが伝えられるかもしれないと信じ=行為していること自体は、「生活形式」(私たちの生き方)のレベルで疑うことができないのだと言っているのです。

 とすれば、私たちは、「意味」を考える(疑う)にも、それ以前に、何かしらの考え得ない(疑い得ない)ものに支えられていなければならず、また、それを内に信じていなければならないのだということになりはしないか。実際、晩年のウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』と呼ばれるノートのなかに、次のように書き記していました。

「神話の体系が流動的な状態に戻り、思想の河床が移動するということもありうる。だが私は河床を流れる水の動き〔意味〕と、河床そのもの〔生活形式〕の移動とを区別する。両者の間には明確な境界線を引くことはできないのであるが」97節

「我々が何事かを信ずるようになるとき、信じているのは個々の命題〔意味〕ではなくて、命題の全体系〔言語ゲームそのもの〕である(理解の光は次第に全体に広がる)」141節

「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提にしている」115節

「私が本当に言いたいのは、言語ゲームというものは人が何かを信頼する場合のみ可能である、ということだ(私は「何かを信頼することができる」とは言わなかった〔つまり、この「信頼」は、信じなかったり、信じたりすることのできる任意の命題に対する信頼ではないということだ〕)。」509節、黒田亘訳、〔 〕内引用者補足

 つまり、「意味」より手前で、何かを「信じて」いなければ、「意味」さえ見えては来ないのだということです。もちろん、そこで信じられているのは、ある命題(意味・内容)ではなく、「とにかく、私たちはこういう風に生きている」という〈事実=行為〉そのものです。そして、「(意識の)スコップがはね返されてしまう」ほどに硬い、その〈事実=行為〉への「信」に支えられて初めて、私たちは世界に「規則」(意味)を読み取り、あるいは時には、それを疑うことができるのだということです。

 ここまでくれば、「AIは人間を超える」だの、「AIが人間の仕事を奪う」だのという話が、いかに軽薄なものなのかが分かるでしょう。「信じる」という行為を欠いているAIには、そもそも「意味」を疑うことも、「意味」を解釈することもできないのです。そこにあるのは、「思考」とは正反対の、「確率と統計」による計算処理です。

 しかし、だとすれば、「信じる」こと(暗闇の中における跳躍)からしかはじまり得ない「教育」に、AIを積極的に導入しようというアイデアが(部分的で、消極的な導入ではない)、いかに非人間的なものなのかも分かるでしょう。それで、「日本が世界に様々なソリューションを提供する『課題“解決”先進国』となるために」(経済産業省)も何もないはずです。AIを持ち上げれば持ち上げるほどに、この国が「様々なソリューションを無視することのできる『思考“停止”先進国』」になっていくことはほぼ間違いありません。

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コメント

  1. アホな放尿犯 より:

    AI教育を誤解されているように思います。
    ホーガンの古いSF小説に大人たちのいない惑星でAIに育てられた子供たちが作り出だした社会が描かれています。
    訪問した地球人が教育ロボットを見て”さぞ高等なAIなのでしょうね”と質問すると惑星人は”あれは質問を質問で返すだけの単純なロボットですよ”と返答します。
    所詮空想の世界ですが、興味深い指摘が含まれていると思います。
    要するに人は、もともと吸収する能力が備わっているのだから子供たちのセンスオブワンダーに根気よく寄り添う対象がいればそれが人であれ、AIであれどんどん勝手に吸収していくのだということです。
    しかも彼らが身につける知識はAIが勝手に定義したものではなく人間が何千年も積み上げてきたものなわけで非人間的であるはずもありません。
    現実を見ても、将棋の藤井君の強さの背景に彼が小学生時代に市販の将棋ソフトの性能が飛躍的に向上したことがあるのを否定する人は少ないでしょう。
    そういった可能性がすでにみえているのです。
    翻って今日の大学受験までの教育プロセスをみればそちらのほうこそできそこないの非人間的AIのように私には思えます。
    ※教育者の方々が様々な努力をされていることに関して否定しているわけではありません。あくまでシステムの限界の話です。
    昨今のAI議論ではトリックスター気取りの●●達がわけのわからんことを言っているせいで極論に走りがちですが、さまざまな可能性があることは間違いないのです。
    人が教えようが、AIが教えようがその内容は人間が積み重ねてきた知識です。
    そして何より教育を受ける側の主役が子供という好奇心の塊の人間であることを忘れています。AIに教わったからAI以下にしかなれないなどという結論が導き出されるのは教育者が主役と思い込んでいるからです。
    人間が人間であるということにもっと自信を持てば空虚なAI議論に振り回されることもなく本当の可能性が見えてくると思います。
    加えるならば、先生の役割はなくなるのではなくより重要なものとなるはずですよ。

    • 拓三 より:

      アホな放尿犯様、バカな脱糞犯から勝手ながら、すこし意見を言わさせて戴きます。

      仰る事は分かるのですが(たぶん)、子供は好奇心の塊です。ですが全てのものにおいてであります。どちらかと言うとAIは今の大人達の好奇心ではないかと。子供にとれば一ヶ月もすれば空気でしょう。AIにハマる子供もいればハマらん子供もいるのでは。藤井聡太さんの話は一つの成功例に過ぎないし藤井聡太さんだからとも言える。「将棋ソフトが進化したから」とするなら放尿犯様もお書きになられた「教育者が主役と思っている」がそのまま「AIが主役と思っている」に当てはまってしまいます。ただ教育の一部分だけのAI導入だとは思いますが主役はやはり人間同士だと思うのです。是非を全て含めて。
      生きるとは何なんでしょうね。
      あっ、それと最後に、私は現代人は総合的に劣化してると思っています。

  2. 神奈川県skatou より:

    (引用記事について)

    ヒトはそれほど特別なものでもないでしょう。

    今のAIがビッグデータになったからといって、自我や意味を獲得するとは思いませんが。
    意味は数学者が設計するものでもないでしょう。数学者が出来ないと言ったからといって、それはどうということもないでしょう。

    もっとも、未来に、なにか本当に知的なものが出来るとして、それをそれと認識できるかは不確かで、さらに、それと会話をするのも、困難かもしれません。

    また、その営みのなかから、そうでない、いわゆる我々が夢想しているコミュニケーション可能なものが生まれるかもしれません。

    そうなれば、それは、ヒトがヒトを知ることなのだと、自分は思います。

  3. 富田師水 より:

    >AIを持ち上げれば持ち上げるほどに、この国が「様々なソリューションを無視することのできる『思考“停止”先進国』」になっていくことはほぼ間違いありません。

    同意します。
    課題解決先進国とか経産省がほざいてる場合か、と思います
    教育はこいつらの専権事項ではないし、そもそもデフレ脱却の前に教育云々も無い

  4. 拓三 より:

    あれれ ? いつから公開コメント出来る様になったの ?
    やはり私は人のフンドシを利用し公開オナニーするのが大好き !

    それはさておき、AIは女にモテん ! 男にもモテん ! おもろない ! だからAI教育など普及しない ! AI教育を夢みている人達は絶対、「モテない仲間」を広めたいだけ ! 己に他者を合わせようとする傲慢でなおかつ意固地な変態 !

    まっ、少し下品で毒説的に表現しましたがこれは感性に通じる問題だと思うのです。
    例えば、私は表現者の皆様の話は違いが有ったとしても理解しようと努力します。意見は言っても反発はしない。しかしながら答えが同じでも反発したくなる人達も存在します。その違いはなんなのか…..。
    一言で言えば感性と云いたいところですが、感性は人それぞれ。生まれ持った感性、あるいは知性から生まれる感性が存在する。経験(知性)を積み重ねると感性も変化するのは確か。表現者の皆様の知性と私では月とすっぽん。歩んだ道も180度違う。つまり感性の一致ではない。ではなんなのか ?

    それは感性を持つ人間と持たない人間の違いなのではないでしょうか。つまり感性そのものの欠落、もしくは感性を邪悪な存在と位置付け排除しようとしている人達に対しての嫌悪感が反発に向かうのでは。(人は感情で行動するものby佐藤氏論)
    確かに感性は時に感情論として特にインテリどもは毛嫌いされます。が感性の否定は知性の否定でもあります。ならば感性のないAIに知性も存在しない。あるのは….感性も知性もない過去の繰り返し。

    結論 ! AIとインテリはオナニーばかりの猿である ! あっ…

    • 拓三 より:

      最後の「過去の繰り返し」とは思考停止し同じ問々を繰り返すテープレコーダーと言う意味。

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