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【川端祐一郎】充実した学生生活を送るには?

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

コメント : 2件

先日、深夜に学生たちと酒を呑んでいると、ある大学院修士課程の学生が、

「大学院での授業も研究も、とても勉強にはなる。しかし、何か、せっかくの機会を生かし切れていないような気がする。このまま、教員のアドバイスに従って修士論文を書いて卒業するだけで良いのだろうか……と不安になる」

と言いました。
とてもよく分かる不安です。しかし、じゃあどうすれば良いかと言われると、簡単に分かるものではありません。

学生生活に限ったことでもないと思うのですが、何となく充実感のない日々が続くということは、誰にでもありますよね。恐らく自分は何かをサボってしまっているのだろう、とは思うものの、何をサボっているのかは漠然としていてよくわからない。大学生や会社の新入社員などで、そういう人はよく見てきましたし、私自身もそういう時期が何度かありました。

単にたくさん勉強をしたり、学外の活動に参加して知り合いを増やしたりといったことを繰り返しても、この種の不安は解消されません。自分は一体、何をサボっているのだろうか?

冒頭の学生のような人が抱くこの疑問に、私もハッキリと回答することはできないのですが、その学生を見ていて一つ気づいたのは、自分自身の「価値観」が問われるような経験をもっと重ねることが必要なのではないか、ということでした。

私は大学生の頃、評論家の西部邁先生が開講していた「発言者塾」という私塾に通っていました。発言者塾では政治・経済・文化・技術・道徳などあらゆる問題について議論をしていたのですが、講義の間もその後の居酒屋でも、西部先生から「君はどう思うか」と頻繁に問いかけられました。当然、塾生同士でも「俺はこう考える」「いや、こうも言えるんじゃないか」といった議論がしばしば起こります。

何らかの社会現象や日常生活上の問題を前にして、自分ならばどのような価値観に基づいて判断を下すのか。十分に内省した上で、慎重に言葉を選んで表現し、他人の意見を問うことがすべての参加者に求められていました。

自分の価値観というものも、よく考えてみると案外曖昧でつかみどころが無いものですし、それを的確に人に伝えるのはもっと難しい。その上で人から批評されて、自分の価値観が底の浅いものであることに気付かされたりするのですから、なかなか疲れる体験ではあります。しかしいま振り返ってみると、そういう議論こそが学生生活の「充実感」の源になっていました。

つまり発言者塾というのは、先生から知識を教わるという意味での勉強の場というよりも、「自分自身が明瞭かつ妥当な価値観に拠ってものを考えることができているのかどうか」が問われ続けるという、一種の戦いのような場だったわけです。

西部先生は、大学生がどんな学生生活を送るべきであるかについても非常にシンプルな見解をお持ちで、「本を読んで、文章を書いて、他人の批評を仰いで議論すること。それだけが重要で、教師の一番の役割も、学生のそういう取り組みを促したり、支援したりすることだ」と言っていました。文章を書くことを勧めていたのは、ある程度秩序立った言葉を表現する努力を経ないと、なかなか自分の価値判断の規準も明確にならないからでしょう。

我々の発行している『表現者クライテリオン』でも、今年から「表現者塾」を開講することにし、執筆陣と参加者の間で「価値判断の規準」を問う真剣な議論を重ねていきたいと思っています。ちょうど今週末には、第2回の講義(講師は柴山さん)が開催されます。
https://the-criterion.jp/seminar/

また、昨年は東京・北海道・沖縄・大阪でシンポジウムを開催したのですが、今年も6月に福岡でのシンポジウムを予定しています。編集部一同、全国各地で国を憂えておられる皆さんとの議論を楽しみにしています。
https://the-criterion.jp/fukuoka_symposium_2019/

そういえば少し前、近畿大学の卒業式で、お笑い芸人の方が卒業生に向けた激励の演説をしたのが話題になっていました。私は、お笑い芸人が大学で演説をすること自体に反対しようとは思いませんが、その内容を聴いてみると、「人生に失敗など存在しない。必ず上手くいくから、とにかく成功を信じて頑張れ」というような趣旨で、これにはあまり賛成できませんでした。

以前もこのメルマガに書いたことがあるのですが、大学の卒業式での演説といえば、どういうわけかアメリカのIT長者たちのものが有名です。アップルのスティーブ・ジョブズ、マイクロソフトのビル・ゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグといった経営者たちのスピーチを、YouTubeで見ることができます。

この手の若者向けのメッセージは、「失敗を恐れずに挑戦しよう」とか「好きなことを追求していこう」とかいうような趣旨のものが多いですよね。上述の近畿大学のスピーチもそうですし、ジョブズやザッカーバーグが言っているのもだいたいそんなことです。

しかし、「好きなことをしよう」とか「ひたすら頑張れ」とかいうのは、ある意味、自分自身の「価値観」を問う戦いから逃げているように私には思えてしまいます。「明瞭で妥当な価値観」がもう出来上がっているのであれば、ひたすら好きなことを頑張ればいいと思うのですが、そんな立派な価値観は簡単に持てるものではありません。それに少々真面目に生きていれば、複数の価値観が衝突してどちらを取るべきか判断に悩むという場面が多々あるわけで、人生も世の中もそう単純ではないわけです。

これも以前メルマガに書いたことですが、ネット上で有名になっているものでいうと、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスがプリンストン大で行った演説は、なかなか含蓄に富むものでした(彼の帝国主義的な企業経営はまったく好きになれませんが)。彼の演説の主題は「才能か、選択か」(gifts or choices)というもので、自分の持って生まれた才能に拠って生きることが重要なのではなく、自分がどんな選択を重ねていけるのかこそが人生の価値を決めるのだというような内容です。

たとえば「頭がいい」というのは天から与えられた才能ですが、年老いて死ぬ間際に自分の人生を回顧して、「俺、頭よかったなぁ」などと感心しても仕方がない。それよりも、人に優しくすることができたか、自分の間違いを素直に認めることができたかというような日々の「選択」の繰り返しこそが、人生の物語を作り上げるのだというわけです。「人生の終わりを迎えるとき、自分は何者だったのかと振り返れば、結局のところ、それまでに重ねてきた選択の数々こそが自分自身なのだ」(In the end,we are our choices.)と。もちろん、大きな選択も小さな選択も、正しかった選択も間違っていた選択も、全て含めてです。

良い選択を下すには、良い価値観が必要でしょう。そして少しでも良い価値観を持つためには、自身の価値観の質が「問われる」ような場面を繰り返し経験しなければならないはずです。『表現者クライテリオン』の使命は、執筆者と読者の双方にとって、「価値の規準を真剣に問う」ような場であり続けることだと私は思っています。

 

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コメント

  1. 藤本雄登 より:

    僕は大学四年生です。現在、川端さんの仰る「不安」を抱えて、「何かをやらねば」と考えはするものの、寄って立つ「価値観」が不在で、同じところをぐるぐる回っている毎日です。先日、気分転換に何処か行ってみようと亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を片手に法隆寺を参詣し、金堂にある釈迦三尊像を金網ごしに眺めていました。すると、一陣の風が吹き込んできて、一瞬「不安」が取り除かれたかのような心地がしました。しかし、その飛鳥の風も束の間の癒しにすぎませんでした。その後、宝蔵院に立ち寄り、かつて亀井が見たであろうガラスケースに押し込められていない仏像の姿を夢想しながら、奈良を後にしました。帰りの電車の中で、その時は言語化できませんでしたが、おぼろげながら「価値観」の不在を古のお寺や仏像に補ってもらおうと思っていたのかもしれない。この無意識の欲望が僕を奈良に向かわせたのだろうと今のところは考えています。でも、「価値観」の形成は、何かに頼るのではないんですよね。やはり、絶え間ない「選択」及び「決断」を積み重ねなければ生み出されない代物なんだなと思いました。

    • 竹内はやと より:

      藤本雄登さん、こんにちは、はじめまして。あなたの投稿を読んで、応援したい気持ちからついコメントしてしまいました。あなたの抱えてらっしゃる「不安」はよくわかります。ですので、助言をさせてもらえば、「何をすれば正しいのか」、「何をすればより善く生きられるのか」で考えてみてはどうでしょう。

      私などもそうですが、人間というものは何かをしたときに、なにか手応えが欲しいものです。そういったやり甲斐や生き甲斐みたいなものを得られたときに、何事かを成したと実感できるものです。とはいえ、人様に迷惑をかけて達成するようなことでは意味がないことは言うまでもありませんので、自分を振り返って、見る人が見ても恥ずかしくない、格好いい生き方を見つけるといいでしょう。

      そのためにも、ここが難しいところなのですが、何が正しいことなのかをよく見定められるようにならなければいけません。それが見えてくれば、何をやるべきかが見えてくるのではないでしょうか。そういった「価値観」ができてくればこそ、ようやく正しい「選択」や「決断」ができるのだろうと思います。

      と、あなたに助言しながら、私自身、ちゃんと正しい生き方をしているのかどうか、まだまだ不安が残っています。きっとこれは生涯終わらない自分に対する問いかけなのだろうと思います。お互い頑張りましょう。

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