こんにちは。ジャーナリストの松林です。
先日、出張ついでに、リニューアルオープンした広島平和祈念資料館を見学してきました。筆者は広島市で生まれ育ったので、ここの展示は子どもの頃から見ています。そうした地元出身者の一人として、この30年の変遷を振り返るいい機会になりました。
私が子どもの頃には、館内でうずくまり、先生に介抱されている小・中学生をよく目にしたものです。見ていて気分が悪くなるほどショッキングな再現ジオラマや写真があったからです。
今回、印象的だったのは、そうした生々しい展示が減る一方、これまで積み重ねられてきた科学的・歴史学的な検証結果が、随所に反映されていたことです。被爆地としての当事者性より、客観性を前面に押し出したということでしょう。それをどう評価するかは意見が分かれるところでしょうが、世代交代が進んで「戦後」が新しい段階に入ったのだという印象だけは強く持ちました。
さて、平和公園を訪れるとき、筆者が立ち寄ることにしている場所があります。資料館から平和大通りを渡った向かいにある慰霊碑です。今回も、少し足を伸ばして参拝してきました。
【グーグルマップ】
https://goo.gl/maps/n9ppvRDJdkDC33ES6
平和大橋のたもとの木陰にひっそり佇む石碑は、この周辺で建物疎開の作業中に被曝死した広島市立第一高等女学校(広島市女)の生徒と教職員の御霊を慰めるために建立されました。説明プレートや碑文によると、この周辺で報国隊の1、2年生(当時12、13歳)541人、教職員7人が全滅。他の動員先も含めると同校では676人(碑文では679人)が亡くなったといいます。
その事実だけでも想像を絶する悲劇ですが、同時に目を引くのは、この碑の正面に彫られたレリーフです。二人の女生徒が亡くなった少女を慰めている様子を描いたもので、モンペにセーラー服姿の犠牲者は腕に箱を抱えています。そこには「E=MC2」と、原子力エネルギーが質量に光速の二乗をかけた大きさであることを表す物理学の公式が書かれています。
なぜキノコ雲の絵や「原爆」という文字ではなく、一般の人には馴染みの薄い数式なのか−−。違和感を覚える人が多いはずです。慰霊碑であるにも関わらず、先ほどの資料館の展示のように、あえて客観的、科学的な表現を選んだのでしょうか。
実は、この碑が建てられたのは原爆投下の3年後でした。そう聞くとピンとくる方が多いと思います。そう。GHQによる検閲制度(プレスコード)が存在していたため「原爆」と書くことができなかったのです。
当時の日本は米軍を中心とする連合国の占領下にありました。支配者である米国は、自らがもたらした原爆の被害について公にすることを禁じていたのです。石碑もその例外ではありませんでした。
当時の雰囲気は、この碑が建てられた昭和23(1948)年8月6日前後の地元紙(中国新聞)を読むと伝わってきます。とにかく異様なのです。
まず、被爆者の現状を伝える記事が見当たりません。たくさんの市民が後遺症に苦しみ、亡くなっていた時期であるにもかかわらずです。被爆後3周年の式典の描写も、「ゆるぎなき世界平和現出への華々しい発足をみた」などと、お祝いムードさえ漂わせています。
掲載された市長の談話や平和宣言も同じ。一部に「死都と化し」などの表現はあるものの、強調するのは広島の再興と恒久平和ばかりで気持ち悪いほど「未来志向」です。犠牲者についても「十数万の市民は尊い生命を捨てた」と、自ら招いた死であるかのような表現を使っています。占領軍にとって不都合な表現や情報は徹底的に削られ、被爆体験は遠い過去の歴史であるかのように扱われたのです。
もちろんほんの3年前、式典会場のすぐ近くで600人を超える罪のない少女らが焼き殺されたことや、この日、GHQの規制から逃れるため「平和塔」という名目で、原爆を原子力の公式に置き換えた不思議な石碑が犠牲者の母校の一角に建てられたことは記事になっていません。これが敗戦国日本の現実でした。
念のため付け加えておくと、日本国憲法は前年の5月に施行されていました。形の上では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない」とする第21条は効力を持っていたのです。
広島市女の慰霊碑について中国新聞に写真付きの記事が載ったのは、それから9年後の昭和32(1957)年6月。学校の敷地から現在の場所に移設されたときでした。本土の占領が終わり、プレスコードが解除されて5年後のことです。
しかし不思議なことに、この記事には慰霊碑の最大の特徴である「E=MC2」についての言及がありません。レリーフについては「一人の女学生をはさんで二人の生徒が花輪とハトをささげる」と説明するだけです。
(被爆3年後の式典を報じる中国新聞の紙面=1948年8月7日付朝刊と、慰霊碑の移設を報じる記事=1957年6月21日付朝刊。いずれもマイクロフィルムから印刷)
記者は当然、プレスコードについて熟知していたはずです。レリーフに原子力の公式が刻まれた経緯についても、取材を通じて知っていたでしょう。なぜ書かなかったのか。
手元の資料が乏しく真相は分かりません。遺族から、触れてほしくないという要望があった可能性もあります。ただ、うがった見方をすれば、記者が抱えるある種の後ろめたさが、レリーフについて説明することを躊躇わせたのかもしれません。プレスコードに言及すれば、新聞社も原爆の被害を伝えていなかった事実に触れざるを得ないからです。当時の記者は「大本営発表」に加え、戦後の「プレスコード」を、いわば原罪のように背負っていました。まして、被爆地の地元紙の記者にとって、後者はとくに重いものだったに違いありません。
「独立」回復後、新聞はそうした贖罪意識に突き動かされるかのように原爆被害の実態を伝え続けます。実は、中国新聞に慰霊碑移設の記事が出た日、朝日新聞の全国版に、原爆症で一人の高校生が亡くなったことを伝える記事が掲載されました。
原爆症で死ぬ 広島の高校生
[広島発]広島市東観音町、人形ケース製造業●●●さん(五五)の長男里則君(一六)=山陽高校二年生=は、二十日夜、原爆症のため広島原爆病院で死んだ。里則君は直接被爆していないが、原爆投下直後の二十年八月九日に疎開先から広島の自宅に帰り、二次放射能を受けたものとみられる。去る二十八年ごろから全身けんたい、発熱、鼻血出血などの症状があり(中略)高熱による脳ヨウを併発していた。今年に入って十二人目の原爆犠牲者である。
(1957年6月21日付 朝日新聞夕刊。●部分は筆者が伏字にした)
最後の一文から分かるように、このころの新聞は被爆者が亡くなるたびに「今年何人目の犠牲者が出た」と報じていました。これは中国新聞のような地元紙だけでなく、朝日や読売といった全国紙でも同じです。こうした記事を通じ、戦後10年以上経っても原爆が被爆者の健康や生命を奪っている実態を、全国の人々が意識し続けることになったのです。
私は表現の自由が確立された時代に生まれ育ち、ジャーナリストとして活動してきました。それはこの上なく幸せなことです。しかし、自由が当たり前のようにある中で生きていると、そのありがたさを忘れてしまうことがあります。
だから時々この慰霊碑の前に立ち、占領軍によって表現を奪われた人々の心中を想像することにしています。教え子たちを無残に殺されただけでなく、それを悼むことさえ禁じられた校長先生の怒り。大本営発表の反省から再出発しながら、読者に対し再び真実を隠すことになった記者の屈辱と悔恨……。そうした途方もない感情の渦が「独立後」の日本を作ったことを忘れてはならないと思うのです。
同時に、原爆から生き延びた広島市女の関係者らが、おそらくは万感の思いを込めて「E=MC2」と石に刻んだことの意味を噛み締めたいと思います。彼らは「沈黙」することだってできた。しかし、困難な状況下でもギリギリの表現を追求したことで、米軍が罪なき子どもたちの命を残虐な方法で奪っただけでなく、それを悼むささやかな表現さえ許さなかった事実までも告発することができたのです。
レリーフの少女が抱えているのがパンドラの箱だとすれば、そこからあらゆる災いと絶望が飛び出した後に残った「希望」は、そのことだったかもしれません。表現者が心に留めておくべき教訓ではないでしょうか。
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コメント
e=mc^2の方が今みるとインパクトがありますね。70年もたつとかなり原爆の脅威は希薄になっている感じがします。
当時より現代の方が核の脅威は深刻化しているのに、感覚はますます鈍く。核兵器が使用される事はあり得ない感じがします。
しかし、これはやっぱりそう思いたいだけでしょう。オバマ元大統領がヒロシマに核のスイッチを持ち込んだように(これの真為は不明)必要とあらば実行される。
70年近く核兵器反対運動しても一向になくなる気配はありません。これは従来通りのやり方は効果がないということなのでしょう。
北だけでなく、すべての保有国に核を解除させる研究を国家を上げてすればいいのに、これまた一向にする気配はありません。