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【浜崎洋介】芸術における「政治主義」を排す―「表現の不自由展・その後」をめぐって

From 浜崎洋介(文芸批評家) 

こんにちは、浜崎洋介です。

「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動が収まりません(概要については、https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019080402000069.htmlを参照してください)。

主催者側の自業自得と言えばそれまでですが、今回の騒動を見るにつけ、私は、大きな論点が見落とされているように思えてなりません。それは、芸術監督である津田大介氏(と、その企画アドバイザーである東浩紀氏)による「政治主義」の問題です。

そう言うと、すぐに「いや、政治主義を加速しているのは、表現の自由を脅かしている側だろう!」という声が聞こえてきそうですが、私はそう思いません。もちろん、展示に対するテロを仄めかす脅迫者=犯罪者に対しては断固たる措置をとるべきです。が、今回の展示に対する市民の批判・非難に限って言えば、それこそ様々な「表現の自由」が許されるべきでしょうし、それを一方的に「検閲的」とするのはお門違いも甚だしい。

それなら、むしろ問われるべきは、そんな「炎上」を不用意に誘発してしまった「表現の不自由展・その後」そのものの姿勢、彼らが設定した過剰な〈政治的フレーミング=記号的意味〉の方だと言うべきではないでしょうか。つまり、誰より「表現」を蔑ろにしているのは、「芸術」を隠れ蓑にしながら、その後ろで「政治」を語っている主催者側の方であり、彼らの安易で軽率な「政治主義」こそが、「表現の自由」を危地に追いやってしまったのではないかということです――ちなみに、以前「文化エリートのナルシシズム―映画『ザ・スクエア―思いやりの聖域』を観て」というメルマガ(https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180606/)を書きましたが、今回の騒動は、あまりに、その内容と酷似していて呆れてしまいました――。

私自身は展示を見ていないので、個々の作品についてのコメントは控えます。が、少なくとも、企画展の「フレーミング」は次の四つの点で徹頭徹尾「政治」的なものでした。

一つには、(1)今回のトリエンナーレでの展示が、2015年に開かれたオリジナル展覧会である「表現の不自由展~消されたものたち」で扱われた作品に、この4年間で新たに展示ができなくなった作品を敢えて加えて構成されたものであるという点。二つ目に、(2)そんな過去の「政治的文脈」を前提にした上で、「平和の少女像」(慰安婦像として扱われている像)や、昭和天皇の写真などの政治的モチーフを引き込んでいるという点(繰り返しますが、これは個別の作品についての評価ではありません)。三つ目に、(3)左陣営で「不自由」を強いられた作品に比して、右陣営で「不自由」を強いられてきた作品を積極的に展示していないという点(この点については、呉智英氏が、以下のサイトでまことに適切な批評を書いておられます https://www.news-postseven.com/archives/20190826_1438197.html )。そして、四つ目に、(4)トリエンナーレの展示に際して男女比をほぼ同一にするなど、作家・作品の強度・質とは関係のないところで「フレーミング」を強化してしまっているという点です。

あらかじめ、ここまで政治的な「フレーミング」を強調しておきながら、今さら「やりたかったのは、公立美術館で作品の文脈を人々が理解し、賛成や反対を超えて議論したり話し合ったりする場にすることでした」(津田大介氏言― https://digital.asahi.com/articles/ASM8K7F28M8KUPQJ001.html )はないでしょう。

いや、百歩譲って、今回の企画展の「政治主義」を認めたとしましょう。しかし、それならそれで、かつて、「芸術は、政治的プロパガンダのためにこそある!」と言ってはばからなかった共産党のように、主催者側は、飽くまで自らの筋を通すべきではなったか。津田氏は、「大量の抗議や脅迫の電話によって現場の組織機能が失われ、トリエンナーレとは無関係の組織にまで同様の電話が殺到して文字どおり悲鳴があがっていました」(前掲)と言いますが、そんな脅しに一々屈しているようなら、「表現の自由」も何もあったものではない。せっかくの「芸術監督」制度なら、全責任は自分が負うとした上で 補助金カットをちらつかせながら恫喝してくる政治家や、「テロ」を仄めかす脅迫者=犯罪者に対して戦い続けるべきでした。

なるほど、津田氏も言うように、たしかに、ある種の「アート」には、「政治」(世間的価値、社会的意味)に還元できない「ジャーナリズムとは違う力」があります。かつて、猥褻罪で訴えられながら、後に20世紀最大の文学の一つに数えられるようになったD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』然り、生前に一枚しか売れなかったにもかかわらず、19世紀と20世紀とを繋ぐ最も偉大な絵画となり得たゴッホの作品然りです。

しかし、だからこそ、個々の「アート作品」に「フレーミング」を課すという行為は、「アート」への無理解と侮辱しか意味していないのです。かつて、ナチスは「大ドイツ芸術展」を開くと同時に、ナチスが押収した「近代美術」を貶めることを意図して「退廃芸術展」(1937年)という展覧会を企画しましたが、私に言わせれば、今回、彼らがやったことは、この「退廃芸術展」の裏返しでしかありません。違うのは、単に、津田氏(及び、その関係者)が、ナチスのような政治的権力を持っていなかったというだけのことです。

では、本来、キュレーションという仕事が担うべき使命とは何なのか。

それは、個々の作品に対して「フレーミング」を強化していくことではなく、逆に、その作品の持つ「意味を超えた力」を何とか救い出すべく、注意深く「フレーミング」を遠ざけ、なお、鑑賞者に適切な回路(歴史的、あるいは実存的・生命的な回路)を開いていくという努力です。そのままでは、様々な世間的意味に浸食され、埋もれていってしまう作品に対して、その「フレーム」を自覚しつつ、それを慎重に取り外していくという地道な作業なのです。もちろん、そのためには、まず作品そのものが自立的な説得力と生命力を持っていることが前提になります。また、キュレーター自身が、政治的「フレーム」ではなく、その作品自体が持っている「意味を超えた力」に目覚めている必要もあるでしょう。

が、今回のキュレーションに限って言えば、作品の「力」を守ることに対する覚悟や緊張は、どこにも見出せない(それを証拠づけているのが、津田氏と東氏との、軽薄な、あまりに軽薄な次の対談動画です― https://www.youtube.com/watch?v=6irSZc8JEZ0 )。

その結果、どのような事態を引き起こしてしまったのかと言えば、脅迫者に「成功体験」をプレゼントしてしまい、世間の萎縮ムードを加速させ、作家の信頼を裏切り、市民の神経を逆なでし、「あいちトリエンナーレ」の名を汚したというにすぎません。これほどに不毛な「炎上」というのはなかなかお目にかかれませんが、それでも、「成果」らしきものを探し出そうとすれば、それは、「表現の自由」を語る思想家やジャーナリストが、いかに「不真面目」であるのかということを広く世間に知らしめたということくらいでしょうか。

彼らは、「政治」と「芸術」との関係を何も分かってはいない。本当にいい作品とは、「現代社会のフレームから外れているから素晴らしい」のではなく、「現代社会のフレームから外れているにもかかわらず素晴らしい」のです。そして、その「素晴らしさ」を守るのがキュレーターの仕事(あるいは批評や編集の仕事)であるなら、その仕事には命を懸ける必要があります。その覚悟がないのなら、それは単なる「遊び」や「悪ふざけ」と何ら変わるところがない。「表現の自由」とは〝守られる″ものではなく〝守る″ものなのです。

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コメント

  1. 拓三 より:

    東大出て「自由が~」よっぽど思春期に自由がなかった反動では ?

    インテリさん(高学歴)って基本一緒よね。(表現者除く)
    自由の意味解って無いんとちゃう ?
    自由を突き詰めれば突き詰めるほど自由は無くなるのに。バカなのかな ?
    地球上の生物はすべて弱肉強食よ。
    そのバランスを崩したのが人間よ。
    だから人間は宗教、哲学、国家で身を守り、あるいは宗教、哲学、国家で自由を束縛することで生命の維持が保てたんよ。

    人間の道徳を作るには時間がかかるけど壊れるのは一瞬よ。特に男は。

  2. 令和の時代は平成からの転換を! より:

    >それは、「表現の自由」を語る思想家やジャーナリストが、いかに「不真面目」であるのかということを広く世間に知らしめたということくらいでしょうか。

    全くですね。津田と東の対談動画見てもこいつらがいかに軽薄でふざけてやってるかが分かります。今回の騒動はバイトテロの炎上と同じ類の炎上だと思ってます

  3. RR より:

    まったく同感です。
    津田氏も東氏も、舐めていたのだと思います。

    彼らは現代日本に「表現の不自由」があるだなんて本気で考えていなかった。
    ただ、自由を掲げるポーズを取りたかっただけなのです。それがリベラルの体質なのです。

    だから本当に反発を受けると周章狼狽してしまう。
    もちろん自分は脅迫者に与しません。あの馬鹿者が逮捕されてよかったと思う。
    しかしあの脅迫は、はからずも津田氏や東氏の覚悟のなさを暴き立てました。

    津田氏も東氏も「表現の不自由」が本当にあるとは思っていなかった。舐めていた。
    それは翻って、表現の自由そのもに対する軽視の顕れでもあります。

    自由というものを護るためには、性根を据えて抑圧者に立ち向かい、時には犠牲すら覚悟しなければならないということを彼らは知らなかった。
    頭では知っていたかもしれないが、本気でそれを理解しようとしなかった。
    だから脅迫に容易に屈してしまうし、おそらく深く考えもしないで展覧会に政治的なフレーミングをも施してしまう。

    表現に対する覚悟を持たない素人が芸術監督をやるだなんて、あまりにも表現を馬鹿にした話ではありませんか。

  4. 学問に目覚めた中年。 より:

    浜崎先生の歯に衣着せぬ姿勢には、共感を覚え頼もしい限りです。しかし私的には行政と政治の不備も、きちんと追求されるべき問題と認識しております。それは官界と政界双方ともに保身ありきの慰安婦合意からたんを発し容認してきた結果も含めた、なれの果てだからです。それが今更感の如く先週末には、朝まで生テレビに片山国務大臣と愛知県の大村知事とマスコミとの音頭を取る役割の三浦某博士が、なんちゃって東レベルと意味不明の討論を展開してました。コレはもはや残念ながら亡国目前ですよ。ならば役立たずの馬鹿げた学歴主義になるわけです。

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