前回のメルマガでは、私たちの「社交」を奪い、そのために、また私たちの「学び」をも阻害する他者なき「ネット空間」のナルシシズムについて論じておきました。
しかし、「見たいものだけを見る」というナルシシズムは「ネット空間」だけに限られた話ではありません。たとえば、2016年のブレグジットとトランプ現象を受けて、エマニュエル・トッドは「エリート間にあったのは、むしろ現実を見ないでおこうとする意思だった」(『トランプは世界をどう変えるか?――「デモクラシー」の逆襲』朝日新書)と述べましたが、まさに、現代の「エリート」たちは、「ネット空間」にも似た「リベラル空間」に囚われて、「現実」に学ぶという姿勢を完全に放棄してしまっているかのように見えます。
というのも、先日、友人の勧めで、『ザ・スクエア―思いやりの聖域』(リューベン・オストルンド監督・脚本/2017年/スウェーデン。ドイツ、フランス、デンマーク合作)という映画を見て来たのですが、このカンヌでパルムドール(2017年)を受賞したヨーロッパ映画が描いていたものも、ほかならぬエリートたちの「現実を見ないでおこうとする意思」だったからです。
映画自体が作品(芸術)としての強度をどれほど持っているのかという話とは別に、多くの仕掛けを施したこの風刺劇は、確かに「現代」に対する鋭い批評性を持っています。
舞台はヨーロッパ、しかも、世界で最も「平等」で「リベラル」(寛容)だと評されるスウェーデン。その南部ベーナムーの現代美術館のチーフキュレーターであるクリスティアンは一つの展覧会を企画します。その名も「ザ・スクエア」。地面には正方形が描かれ、その作品の横には次のようなキャプションがついています。「“ザ・スクエア”は〈信頼と思いやりの聖域〉です。この中では誰もが平等の権利と義務を持っています。この中にいる人が困っていたら、それが誰であれ、あなたはその人の手助けをしなくてはなりません」と。
それは、現代社会にはびこるエゴイズムや差別問題、あるいは格差問題について一石を投じる展示……だったはずなのですが、当のクリスティアン(と、その他のキュレーターたち)は、その「信頼と思いやり」の姿勢を「現実」において生きることが全くできません。
財布と携帯を盗まれたクリスティアンは、GPS機能を使って犯人の住むマンションを突き止めると、全戸に脅迫めいたビラを配って犯人を炙り出そうとしますし、ある切掛けで一夜を共にしたアメリカ人女性に対しては、その責任を取ることから逃げ続けます。あるいは、レセプションパーティで突然暴走し始めたアーティスト(猿の物真似をするパフォーマー)には、何らの手立ても講ずることができず、自身の脅迫めいたビラによって傷つけてしまった移民の子供に対しては、徹底的な無視を決め込もうとします。
しかし、この映画で最も恐ろしいのは、この「言っていることと、やっていることとのズレ」を、彼ら文化エリートたちが、誰一人として明確に意識しているようには見えないことです――そこに、この映画独特のドタバタ性=喜劇性も生まれるのですが――。彼らは、自分の頭の中に描かれた〈信頼と思いやり=ザ・スクエア〉の幻想を壊すまいとするあまり、その理念を裏切って存在する「他者」を認めることができません。あるいは、自分の「リベラル」なアイデンティティを揺るがす「他者」を無意識のうちに抑圧してしまうのです。
しかし、だからこそ、彼らは、「他者」を深く問い直すことができない。たとえば、本当に「信頼と思いやり」を生きようと思えば、その対象を限定する必要がありますが(神でもない限り無限の他者受容は不可能です)、彼らが、それを限定することは決してありません。なぜなら、「信頼」を限定してしまった瞬間、「信頼と思いやり」は、それが強く向けられる対象と、弱くしか向けられない対象との差異(差別)を括り出してしまうことになり、彼らの頭の中にある「平等」と「リベラル」(寛容)の限界を露わにしてしまうからです。
しかし、そんな「限界」の自覚は、いい歳のオジサンにとっては何の得にもならないどころか、文字通り「リベラルな世界」に順応して地位を築いてきた文化エリートたちにとっては迷惑な話でしかありません。とすれば、「他者」の存在などは無視するに如くはない。こうして、彼らは「信頼と思いやり」を口にしながら、徹底的な現実無視(周囲からの自己隔離)を決め込み、もし、「他者」が目に入るようなことがあったとしても、その責任は自分ではなく、社会の側にあるという言い訳を、あの手この手で捏ね上げようとするのです。
ところで、ここに描かれた文化人の生態は、世界の「無責任なエリート」(トッド)たちの生態と何とよく似ていることでしょうか。「ヒト、モノ、カネの自由な移動」を語る一方で、同盟国の政治的自由を奪うEUエリートたち。「移民」への寛容を説きながら、「国民」に対する寛容を示せない各国の特権階級。差別の解消を言いながら、都市的「知性」から農村的「反知性」を差別するグローバリストたち。彼らは総じて「言っていることと、やっていること」が違っています。のみならず、それを自覚することさえできません。
では、このグロテスクな風景の背後には何があるのか。おそらく、体制に順応することしか覚えてこなかった「良い子」たちの臆病です。この臆病こそが、彼らに、心から信じてもいないPC(ポリティカルコネクトネス)的言辞を弄ばせ、何らの感動もない現代アートを賞賛させ、深くつき合う気もない「弱者」(LGBT/フェミニズム)への同情を装わせるのです。なぜなら、その振舞い方こそが「エリート」であることの証明であり、その自意識なしに、彼らは彼ら自身の〈弱さ=個人主義の不安〉を慰める術を知らないからです。
その点、この映画のラストは象徴的です。展覧会の広告PRで、その欺瞞性を露わにしてしまったクリスティアンは失職してしまうのですが(それ自体が、現代的な「炎上」の形を象徴しています)、その後に、改めて移民の子供に向き合おうとした時、ようやく知ることになるのでした。その移民が既に何らかの理由で転居してしまっているという事実を。
果たして、私たちは「現実」そのものが消え去る前に「現実」に向き合うことができるのか。それとも、「現実」に向き合えない「うしろめたさ」を抱えながら、ますますの自閉を加速していくのか。それを決めるのは、おそらく、私たちの「生き方」を守ろうとする意志、「快楽」ではなく「幸福」をこそ追求しようとする明確な勇気だと思われます。
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