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【浜崎洋介】この「ジョークのような世界」のなかで――映画『ジョーカー』のカタルシス

From 浜崎洋介(文芸批評家) 

 こんにちは、浜崎洋介です。

 柴山さんと、藤井先生のお薦めもあって、遅まきながら、今、話題の映画『ジョーカー』(ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)を見てきました(藤井先生も、「『ジョーカー』映画評論~腐った社会が「純粋な無私の悪人」を産み出す~」を書いておられます)。消費増税後のロードショーということもあってか、このネオリベ社会の残酷さを徹底的に描き切った映画に、久しぶりに圧倒的な「カタルシス」(排泄浄化)を感じて帰ってきたという次第です。

 しかし、これは我ながら危うい「カタルシス」ではないか。なぜなら、狂気に至るまでのジョーカーに感情移入をしながら、その過程に「美しさ」――ある種の優雅さや、自由さ――を感じてしまったということは、私の中に、ジョーカーと同じ、この社会に対する「破壊願望」や「破壊衝動」が存在しているということを意味しているからです。
では、この「破壊衝動」はどこから来るものなのか――ここからは、完全にネタバレなので、これから映画を観ようと考えている方は、ご注意ください――。

 おそらく、それを考える手がかりは、ジョーカーになる前に、主人公のアーサーが口走っていた一言、つまり、「狂っているのは僕か、世界か」という言葉にあります。

 なるほど、緊張が高まると笑いが止まらなくなるという「笑病」を患い、社会から孤立していくアーサーも、「狂っている」と言えば「狂っている」のかもしれない。が、それ以上に、金と地位だけが人々を結び付けているネオリベ社会も、十分に「狂っている」と言うべきではないか。「下」を侮蔑しながら、どうすれば「上」に行けるのか、あるいは、どうすれば「この社会で生き残れるのか」だけを打算的に考えながら、それ以外の価値(生き方)があることさえ思い至らず、それに適応した勝者も、それに適応できなかった敗者も、ともに同じ物差し(自己責任原則)の中でこわばり、馴れ合い、嘘をつき合い、騙し合い、嘲り合っている大衆社会――それこそ、「狂気」以外のなにものでもないでしょう。

 映画の冒頭、そんな「社会の狂気」と「アーサーの病気」とが対照的に描かれますシーンが登場します。バスに乗っているアーサーは、座席の前から振り返る黒人の男の子を楽しませようと、おどけた顔をして見せるのですが、それを見て笑う男の子をよそに、母親は憮然として言い放つのです、「かまわないで」と。するとアーサーの持病である「笑病」が誘発され、車内にはアーサーの笑い声だけ不気味に響き渡ることになるのでした。

 ただ振り向く男の子を楽しませようと、ちょっとおどけて見せたにすぎないその他者への優しい気遣いが、しかし、大都市ゴッサムシティでは、気味の悪い「要らないお世話」でしかないという事実。都市の孤独を抱えもった人々は、いざ、その〈外部=ぬくもり〉が示されると、突然こわばり、それを非難さえしはじめるという現実。それこそは、「笑うしかない現実」、「ジョークのような現実」だと言うべきではないでしょうか。

 ところで「笑い」とは、ベルグソンによれば、「生命の流れ」をせき止める「機械的なこわばり」を揉みほぐし、そこに再び生命を交わせようとする努力だとされます(H・ベルグソン『笑い』)。つまり、人間的「常識」から逸脱した放心(ボケ)を距離化すること(ツッコミを入れること)によって、そのままであれば、不条理にまで突き進みかねない現実を、かろうじて「常識」に繋ぎとめようとする努力、それこそが「笑い」だということです。しかし、だとすれば、アーサーが病んでいる「笑病」もまた、ほとんど不条理と化した現実を突き放し、それを「ジョーク」とすることによって、このグロテスクな現実に耐えるために編み出された生命保持の方法、その常識維持の手立てだと言うことはできないでしょうか――そして、それを裏付けるかのように、アーサーが見るテレビ画面のなかには、いつも、「現実」を異化するコメディ番組や、明るい喜劇映画が映っているのです――。

 実際、アーサーが強いられている現実は、ほとんど「ジョーク」としか言いようないほどに歪んでいます。貧困撲滅を謳う政治家は、しかし、貧困層を侮蔑する言葉を口にし、街には、衛生局のストライキによって巨大ネズミ――つまり、たらふく食ったネズミが溢れかえっているのです(ちなみに、デフレ脱却を謳いながら消費増税し、「日本を取り戻す」と語りながら移民政策に舵を切り、改憲を言いながら加憲を訴え、「桜を見る会」には関わっていないと言いながら人選の推薦はしているという不条理をさらしながら、なお、その支持率を下げないという安倍政権も、ほとんど「ジョーク」の域に達しています)。

 しかし、そんな「ジョークのような世界」のなかで、アーサーは、必死で「正気」を保とうとする。病弱な老母を抱えながら、一人、ピエロの大道芸によって貧しい生活をやりくりする日々。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母親の言葉を守って、必死で「笑顔」で社会に適応しようとするアーサー。しかし、適応しようとすればするほどに、上司からは軽んじられ、同僚には裏切られ、あるいは、市の緊縮によって、ソーシャルワーカーの支援と向精神薬の打ち切りを告げられ、さらには仕事まで失ってしまうという現実。そして、そんな「現実」の果てに、下品な三人のエリートビジネスマンを、ほとんど偶然に射殺してしまうことになるアーサーは、それを契機に、「ジョークのような現実」に、ただ押しつぶされていた無力なピエロから、次第に、「現実をジョークとして笑ってみせる」不気味なジョーカーへと変貌を遂げていくことになるのでした。

 が、単なる「殺人ピエロ」(受動性)が「ジョーカー」(能動性)へと成長するためには、やはり、外部の不条理と同じくらいの不条理が、内部からもやってくる必要があった。言い換えれば、どこからが現実で、どこからが妄想なのかさえ分からないほどの「現実崩壊」、全ての現実がジョーク(喜劇)として見えるほどの「自己崩壊」が必要だったのです。

 それはまず、母親が実の母ではなかったという事実として到来しますが、それがまた、母によって語られていた過去が、母の妄想でしかなかったのかもしれないという不安を掻き立て、さらに、自身の「笑病」そものが、かつての母の交際相手が幼い自分に振るった暴力(虐待)の結果かもしれないという疑いを加速させることになるのです。つまり、自分を世界に繋ぎとめていた母への愛情(自分を支える過去の記憶)までが信じられなくなってしまった時、アーサーは、この世界のトランプゲームの「外」へとこぼれ落ちるようにして、そのトランプゲームの全てを笑って見せる「ジョーカー」へと変身することになるのでした。

 映画では、ここから、「ジョーカー」による圧倒的な「暴力」が一気に炸裂していくことになりますが(それは、ほとんど裏返された自殺の表現です)、ここで見逃してはならないのは、この「守るものも失うものも無い」ことを自覚し切った男の顔に兆しはじめる輝きであり、「現実」に耐えることをやめたアーサーの優雅さ、その自由さ、その美しさでしょう。そして、そのジョーカーの、あまりに美しい姿に見惚れるかのようにして人々は、それまで被っていた「平和で安全な市民」の仮面をかなぐり捨てて、「殺人ピエロ」の姿(富裕層=エリート層への反発を表現する姿)で街頭デモに繰り出していくことになるのです。それは、まるで、アーサーの「孤立」が「孤立」そのままに人々において共有され、その孤立の只中から、圧倒的な破壊と暴力の「祝祭」が立ち上がって来るかのような光景でもありました。

 「狂っているのは僕か、世界か」と一度でも自問したことのある人間なら、おそらく、この光景に「カタルシス」(浄化)を覚えないことは難しいでしょう。と同時に、今、現在、世界中で起こっているポピュリズム運動――フランスでの黄色いベスト運動や、香港での覆面デモ――を思い出さないことも難しいはずです。ということは、つまり、今、この社会――ネオリベ化し、格差化し、ポストトゥルース化する社会――を生きる私たち自身が、それほどまでに「支えなき個人」であることに焦燥を覚えはじめているのだということであり、「ジョーカー」による「破壊衝動」を内面化しつつあるのだということでもあります。

 が、「芸術」とは、まさに、社会が切り落とした欲動を拾い上げる営みではなかったか。いや、この私たちのなかに淀み溜まった「破壊衝動」を見つめ、その形なき情念に――その不可視の焦燥と苛立ちに――形を与え、それを排泄し、浄化する営みではなかったか。

 とはいえ、もちろん、それは単なるガス抜きではありません。むしろ、「ジョーカー的なるもの」が何によって齎され、何によって加速されているのか、それを感情(直観)と理性(知性)によって辿り直させること、それこそが「芸術」の営みであり、またその使命なのです。そして、その「芸術体験」を通して人は、自分にとっての「敵」(毒)が何であり、また「味方」(薬)が何であるのかを、ようやく内在的に理解することにもなるのです。

 しかし、そんな「敵」(毒)と「味方」(薬)を正確に見出すためには、観客の一人一人が、『ジョーカー』の世界を一度体験してみるしかないのでしょう。が、最後に、それを見出す手がかりになる言葉を一つ引いておきたいと思います。アーサーは、自分の父親かもしれないと考える男(ブルース・ウェインの父)を前に、次のように言うのです。

「別にあなたに会って困らそうという気はない。パパ(つまり家族)のハグが欲しいだけなんだよ」と。
果たして、目先の「経済主義」が全面化している21世紀現在、アーサーの願いは、主観的で感傷的なものでしかないのでしょうか。それについての答えは、まさに映画『ジョーカー』そのものが示しているでしょう。少なくとも私は、その手応えを感じています。

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コメント

  1. exempty より:

    ジョーカーを見てまず思ったことは
    なんてノスタルジックなんだということでした。
    意図的に70年代80年代の曲を使っていて
    古き良きアメリカの黄金時代を思い起こさせる空気があった。
    ストーリーは悲劇と悲惨と不幸でいっぱいなのに、
    その雰囲気と世界観は今は無き幻想を感じさせる空気があった。

    その意図があったのかはわかりませんが、
    アメリカの中流階級の黄金時代のころ栄えていた都市である
    デトロイトあたりはこの映画などの舞台に近いように思います。
    その安定して栄えていた時代には映画の中のような極端な
    格差とグローバル化による道徳の喪失と社会荒廃は今ほどなかったでしょう。
    その時代を思い起こさせる音楽を多く流しながら、
    描かれるのは現社会の荒廃という不可思議な世界。
    そこにファンタジックな悪のヒーローが生まれるという
    幻想的な美しさをその音楽などで表現しているのかもしれません。
    また、そのころの世界の美しさはもう今は無くなってしまったということも、経済格差の極大とともに訴えているのかもしれません。

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