こんにちは、表現者クライテリオン編集長の藤井聡です。
この度、表現者クライテリオンが始まって依頼二冊目となる「別冊」を出版しました。
前回の別冊は、日本経済を破壊する「消費税増税」をなんとか凍結せねばならない、という狙いで緊急出版したものでした。そして、今回は、その消費増税被害の上にコロナ禍がさらに襲いかかる大被害に「対峙」するために緊急出版したもの。題して、
『「コロナ」から日常を取り戻す』
https://www.amazon.co.jp/dp/4828422072/
ついてはこの別冊の主旨のご紹介までに、本別冊の扉に掲載した「刊行にあたって」をご紹介さし上げます。
まずは下記ご一読の上、コロナ一人でも多くの皆様に本別冊をお読み頂きたいと思います。
よろしくお願いします。
――――――『刊行にあたって』――――――
新型コロナウイルスは、私達から「日常」を奪い去ってしまった。そして、感染が俄に拡大しつつあるこの七月、その傾向はさらに加速しつつある。
かつて当たり前だった会食も宴会も、観劇もコンサートも、そして職場の交流も親戚づきあいも皆、多かれ少なかれ「自粛」せざるを得ない事態に陥った。
無論、その背景には「オーバーシュート/感染爆発」「ロックダウン/都市封鎖」「重大局面」「緊急事態」「八割自粛」といった目新しいキーワードで人々を煽りに煽った政治家、専門家、TVメディアの存在がある。そうした「煽り」の結果、心底コロナを怯える人々、いわば「コロナ脳」と呼ぶべき認識に陥った人々が量産されていったのだ。
コロナ脳に陥った人々はまず手始めに自分自身の活動を自粛し、自らの日常を破壊し始めた。しかし彼等はそれだけでは事足りず、普通の日常を続けんとしていたあらゆる人々に「不道徳者」「裏切りもの」とのレッテルを貼り、批難し、「自粛」を強要し始めた。結果、彼等は自らの日常のみならず、コロナに全く怯えていない人々も含めたあらゆる人々の自由を奪い去り、その日常を破壊していったのだ。
そして、緊急事態宣言なるものが解除された後もなお、一旦作り上げられてしまったその基本構図は今も厳然と潜在し続けている。「自粛」を言い募ってきた政府専門家達は今度は、他者と会うときは二メーターのソーシャルディスタンスを確保せよ、それこそが「新しき日常」なのだと命じ出したのだ。
そしてそんな彼等の勢いは、「PCR陽性者数」が増えれば増える程に加速する。仮にその増加が単にPCR検査数の拡大によってもたらされたものであったとしても、さらにはそれが重症者数や死者数の増加にさして結び付いていないとしても、何ら状況は変わらない。
かくして我々の日常は未だ、コロナに奪われたままなのであり、かつ、さらなる危機に見舞われつつあるのが現状だ。
しかし、新型コロナウイルスの特性を様々な角度から検証すれば、その感染による重症者・死者数を医療限界の範囲内に的確に抑制しながら「日常」の破壊水準を最小化する医学的、疫学的方途は十二分に存在するのだ。そうであればこそ、我々にとってその方途を探り日常を取り戻すことを措いて他になすべき事など何も無いではないか。そもそも日常を奪われた生に生きる価値などどれほど宿ると言うのか。
無論、少なからぬ人々は「日常を取り戻す」取り組みに激しい反発、批難を差し向けることだろう。しかし彼等は間違っている。彼等は、そうした日常を取り戻さんとする取り組みが自分の、あるいは自分達の健康と生命を脅かす危険な取り組みと認識しているのだろう。
しかし我々の健康と生命は新型コロナのみならず経済崩壊を含めたあらゆるリスクに晒されているのである。そしてそうしたあらゆるリスクから我々の「身体」そして「精神」を守るためにこそ、「日常」が取り戻されねばならないのである。
だからこそ、「危機と対峙」せんがために刊行している本誌表現者クライテリオンは、我々の日常を取り戻さんがために、本誌の一冊全てを「コロナ」問題に費やす別冊を発刊するに至った。是非とも最後までご一読いただき、それぞれの日常を取り戻すそれぞれの営為に本誌をご活用いただく事を、心から祈念したい。
表現者クライテリオン編集部
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是非とも、別冊クライテリオン、『「コロナ」から日常を取り戻す』をご購入下さい!
https://www.amazon.co.jp/dp/4828422072/
追申:前回のクライテリオンメールマガジンで『今、「自粛派」になってしまっているのは、コロナに壊される「社交」を持たない人々なのだと思います。』というタイトルの記事を配信したところ、様々な反響を頂きました。ただ、中にはタイトルイメージだけで中身を読まずに批難されている方も散見されましたので、改めて下記に解説記事を配信しました。ご関心の方はご一読ください。
『なぜ、コロナについての自粛を巡る議論は人を狂わせるのか』から考える、「バランス感覚」と「謙虚さ」の重要性
https://foomii.com/00178/2020071115150668504
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コメント
藤井先生ら半自粛派とそれを批判する徹底自粛派の意見、どちらも目にしますがどうにも両者で話が噛み合っていない気がします。
自粛には、無対策~緊急事態宣言さらにはロックダウンまでグラデーションのようにいろいろなレベルの段階がありますが、両者ともお互いがどのレベルが適切と想定していて批判し合っているのか見えてきません。
緊急事態宣言解除から数ヶ月経った現在ですが、徹底自粛を謳っている方々もロックダウンやすぐに緊急事態宣言を再発例すべきとは言っていないように散見されます。
また、藤井先生ら半自粛派もコロナから日常を取り戻すとは言っていますが、決してコロナ以前の無対策の状況で良いとは言っていません。
つまり、両者ともにグラデーションの間のところで適切なレベルを探しているのです。
どのレベルが適切なのかは個別具体的にしなければイメージで叩き合う関係がこのまま続いてしまうように思われます。
映画館を事例にしてみましょう。
映画館は緊急事態宣言中、休館の対応をし、現在は営業を再開していますが一席飛ばしのような対策をしています。
この対応に対し、政府が補償して映画館を休館にさせるべきだという意見を見ないので、徹底自粛派も映画館の営業の再開についてある程度納得しているのではないでしょうか。
また、一席飛ばしの対応について語られることは多くありませんが、マスク着用を義務付ければ一席飛ばしにしなくても大丈夫という意見や、二席飛ばしにしなければ2m確保できないので不十分といった意見もあるかもしれません。
さらには、観客が上映中叫ぶ絶叫上映という上映形式や、手掴みで食べるポップコーンはなるべく避けたほうが良いと私は思いますが、政府によって制限をかけるべきとは思いません。このことについて私に反対する方々もいるでしょう。
今回は映画館の話を例えに出しましたが、
個別具体的な話に落とした言論を通して、両者がグラデーションの間の適切なレベルを模索できるような議論になってくれることを私は願います。
まだ別冊の方は購入してませんが(おい!)同意いたします。
徹底自粛論者は、「半自粛を謳うヤツは、政府に財政出動させることを諦めた敗北者だ!」と指摘する。
そ、そうなの〜!?(疑心)
その理屈であれば、「徹底自粛論者は、我々のかけがえのない日常を(そして文化までも…!)新コロに自ら蹂躪されることを受け入れた敗北者」とも言えるのでは!?
…とはいえ、まぁもちろん、新コロが我々の生命を、無慈悲に!、そして大量に!奪い去っていく可能性が高いなら、「徹底自粛で日常生活を犠牲にする代わりに、生命を守り通すぜ!(キリッ)」、という戦略も成り立ち、そしてそれはある種の矜持となり得る(試合に負けて勝負に勝つ、的な?w)。
しかし現状は、かのスウェーデンですら、「ヤバ目のインフル」程度の被害であったという見解も示されつつある。いわんや、欧米の数十分の1の危険性(である可能性が高い)の日本において、徹底自粛を行うことは、単なる日常(そして経済)の破壊に終わってしまう可能性が高い。そしてそれはショック・ドクトリンを行いたい者にとって好機となり…(略)
また、「半自粛は弱者切り捨ての新自由主義的論理で、ナショナリズムの破壊をもたらすぞ!」という言説も有る。
これは、確かに一理ありますよ。ウイルスが蔓延して犠牲になるのは、主にご高齢の方であるので。
…でも、あれれ〜、藤井先生の仰るように、自粛により日常を奪われた人々の犠牲は全く無視??
どっかの自治体では成人式をオンラインでやる、らしいですが、これもう日常変容というよりも文化破壊に近づいてない? Twitterをみていると、自粛に不満のある人々(特に若者)が急増しており、徹底自粛もまた国民の分断を招くのだ、という観点が必要だと感じる。
どうも徹底自粛論には「死ななきゃ万事OK♪」みたいな匂いが感じられて、嫌な感じ。
…無論、死んだら日常もクソもない(下品)ので1%くらいは同意する。死ぬのは誰だって怖い…けれども「死にたくない〜!泣、自粛しろ〜!!」と声高に叫ぶ爺さんほど醜悪なものは無いと感じた(めちゃ失礼w)。自分の生を守るために、他人の人権の制限をやすやすと訴えて良いはずはないのでは。
死ぬ恐怖をグッとこらえつつ、それでも強がって生きていくのが「サムライ」じゃないの?
知らんけど。
めちゃくちゃ散文になりました。失礼しました 汗。
これからもクライテリオン、応援してます!!