『表現者クライテリオン』2023年1月号掲載の小幡敏「第2回 死線上の男たち―地獄に咲いた、生命の輝き―」の続き、第4章~第6章をWEB限定で公開いたします。
前半、第1章~第3章までは『表現者クライテリオン』2023年1月号(本誌p144~)にてお読みください。
人肉嗜食ということに、なぜか人は慄然とする。妙なことを言うようだが、私はこれをさほどに特別視しない。勿論、今この社会のどこかでそれが行われているとすれば、背筋の凍る思いがするだろうし、自分が餓えてもそんなことに手は染めたくない、そう思う。
が、道徳律というのは必ずしも普遍的なものではない。たとえばボルネオとニューギニアの間に位置するセレベス(スラウェシ)のトラヂヤ族では、女は未婚の内はできる限り多くの異性と交渉をもつことを推奨されるが、結婚したのちは貞操を守るよう厳に求められ、破ることがあれば殺されるほどに厳格な規律だったという。それは外部の者から見れば甚だ奇妙であったが、トラヂヤ族が平気で日本兵のところに未婚の女を連れて来ては勧めたというから、本当なのだろう。
そもそも、我々の無味乾燥な法治社会にあってすら情状酌量という余地は残されている。人を殺すにしても、殺し方、殺した理由、その他の要素は当該者の罪過を重くもすれば、軽くもし得る。
その意味において、ニューギニアにおけるカニバリズムは、坊主が女犯を働いたようなものではないか、と言ったら、果たして言い過ぎであろうか。
この点、私はまだ、ニューギニアにおいて(飢餓状態において)「俺は人肉を食った」という一人称の証言は読んだことがない。破戒僧の告白はいくらもあるのだから、やはり人肉を食うというのはそれだけ禁忌として深刻なことなのかもしれない。戦記に登場するそれは、状況からの推測か伝聞でしかない。或いは、自らも食ったことを告白し得ないだけなのかもしれないが、いずれにせよ、誰かが食ったことは否定出来ないと思えるほど、どの戦記にもそれは描かれている。
この時期、すでにガダルカナルから流れてきた噂があった。黒豚(黒人)はうまいが、白豚(白人)はまずいという話が、まことしやかに囁かれていたのである。(中略)
米軍の爆撃で住民の中年男が爆死していた。頭に破片をうけて砕けていた。原住民の死体など、べつに珍しいはずがなかった。だのに、死体のまわりで異様な雰囲気をただよわせていた。
近づいて見ると、すでに片腕は切断されていた。兵隊が剣を片手に、一方の手には切断した腕を持っていた。その兵の目だけが、異様にぎらぎら光っているように思えてならなかった。切り取られた黒く太い腕の指は、気味悪く内に曲がり、苦悶を現わしているようだった。だが、切断口は赤い牛肉を思わせた。(『地獄の戦場 ニューギニア戦記』)
先客があるらしく背嚢が二つばかり転がっていた。見るとも無く周囲を見廻した目に、五、六メートル離れた大木の根室に見てはならない物を見てしまった。
野晒しの腐肉に禿鷹が首を突込んでいるように、二人の兵隊がうずくまっている姿を、顔中髣髪(原文ママ)にしたおんボロ兵の姿が、彼の目にはこの世の物でない幽鬼の貪りに見えて来た。生かして置いて人間社会のためになる奴ではない。天に代って俺が一発幽鬼の胸板を撃ち抜いて…と思った。(『魔境 ニューギニア最前線』)
敵は死体を残して退却する。夜になるのを待ちかねて、束村大隊の兵士はゴソゴソとトカゲのように這い出して、敵の死体を陣内に引っぱりこむ。兵士のゴボ剣が解剖刀となり、(略)飢えた日本人は闇の中で、肥った白人の肉を丹念にさばいた。(略)「敵」という人間の死体の一部が日本兵士の胃腸を通過した。(この叙述は噂に基いた私の勝手な想像である)(『ニューギニア戦記』)
これらが実際に起こった出来事だとすれば、原住民、友軍、敵兵、その全てが〝食糧〟となる瞬間があったことになる。これはいかにも、慄然事である。金本林造を取り調べたGHQの日系二世はこうした出来事を指し、「神を冒瀆し、天を恐れぬ、人間にあるまじき大罪を犯してまで、生き延びるには及ぶまい」と冷ややかに言ったそうだが、我々とて、戦争ではそんな醜悪で悲惨な出来事が起きたのかと息をのみつつ聞き流すのが関の山であるから、二者の間にさしたる違いはあるまい。野呂邦暢は次のように言っている。
勝利者は勝利者ゆえに戦いそのものから歴史の教訓を汲みとることがすくない。敗北者は時には偉大になり得る、と本稿の初めで私は書いた。しかし、敗北した人民が偉大になり得るのは、敗戦経験をとことんまできわめつくすことができるときだけである。
敗戦はにがい、敗戦は屈辱である。敗戦はきたなく、苦痛と恥辱に満ちている。できることならそれから目をそむけ、さっさと忘れるにこしたことはない。しかし、そこにとどまっているかぎり敗北者は永久に卑小な敗北者にすぎない。(『失われた兵士たち』)
その通りだと思う。そしてこれを思えば、戦後いつのまにか被解放者として勝利者の末席に連なってしまった日本人が、いまだに卑小な敗北者であることも道理である。
金本大尉は日系二世の言を、真の飢えを知らぬからこそ吐けるものだと評した。彼に言わせれば、「自分以外はすべて食べられるものに見えてくるに至って真の飢餓は到来する」。色でいえば真っ黒だという。「この地球上に全く食うべきものがなくなった時、愛する女房の臀肉を食わぬと誰が保障し得よう」、という言葉は重い。
釈迦も禁じ得なかった食欲というものに、凡夫である我々がどれだけ抵抗できようか。日常生活においてすら、嘘もつけば言い訳もしてしまう現代人が、戦場における飢餓に決然、対し得るとはとても思えない。或いは、こういう性格も見ておいてよいだろう。
ガリ転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。(中略)この転進は、そこまで人間を追いつめていたのだ。Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱している。「大きな蛇の肉があるんだが、食って行かないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らなかった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる―そんな空気を感じたのは、思いすごしであったろうか。(『極限の中の人間』)
三人寄れば文殊の知恵というが、そんなものは爺の茶飲み話である。衣食足りた人間たちが、立派な服を着て、微笑絶やさぬところで成り立つに過ぎない。貧民窟で肥満した宣教師が汝のパンを分け与えよとは言えぬものだ。切羽詰まったところにあらわれる人間が全てだとは言わないが、抜き差しならぬところで人間の真価が試されるのは本当である。
むしろ人は、三人寄れば平気で悪事を働くようになる。言ってみれば、悪も一つの才気なのだ。人は一人では悪事も働けないほどに弱い。それが、寄り集まれば、どんな悪事だって平気の平佐でやってのける。
つまるところ私たちの内の最も典型的な気分は、次のようであるに違いない。
「人間て、つまらんものですね。自分は、気の弱い男だと思っています。なんにも、できはしません。だのに、自分の心の内をさぐってみると、誰かが自分の飯盒のなかにいれてくれるものはないかと、ひそかに期待している気持ちがあるんです。こうして打ち明けて、自分を恥じてみても、明日もまた同じことを待っているように思われるんです。もう、なさけのうて……」(『極限の中の人間』)
この兵隊は全身から善良さを感じさせる小男だったそうだが、その彼をして、目の前に人肉を置かれれば食うのではないかと考えさせるもの、それが飢餓の苦しみだった。ニューギニアの兵は悪疫にまとわりつかれながら飢餓に耐え、その困苦欠乏の長い道程の中でも、絶えず人間であり続けることの意味を問われ、与えられた苛酷な試練に耐えていた。一瞬一瞬を生きることがそのまま、修行であった。
もはや敵は、迫りくる米濠軍ではなかったのである。
ここまで読んできて、読者諸兄はどう思うだろうか。転落していった日本人がかくなる醜態を晒した事実に目を背けたくなっただろうか。そうであるなら、私の本意は違う所にある。何故なら私は、数ある戦場の中でもニューギニアは、もっとも清潔な戦場だとすら考えているからである。
奇妙に思われるかもしれない。しかし、ニューギニアは特異な戦場だったのである。先に述べた様に、そこでは軍隊という膨大な組織が半ば以上取り払われていた。それは、一面では苛酷な運命と悲惨な結末とを招来したが、一方では日本型組織のいやらしさ、将校と兵との拭い難い確執などを見ずに済むのだ。また、この島には女が居ないから(当時異様に映った原住民の女を、兵も性的な対象とはせず、興味本位で腰布を捲ったような事例がわずかに認められたという)、戦場につきものの性に関する醜聞もない。いわば徹底的に生存に取り組んだ記録なのである。この飢餓の島で生命欲とはそのまま食欲であったから、問題はもっとも単純な意味での生存それだけに収斂した。それが極めて清潔、そういって不謹慎であれば、純粋に感じられるのである。
また、他人の褌で相撲をとるようだが、日本兵は何せ、強かった。まったく、これほどに見上げた兵隊がいるのかと思えるほどに強かったのである。戦闘に強かったことは既に触れた。その強さは、全く人間の力を超越していたかに思える。餓鬼のように痩せ衰えた身体、緩い坂でも転んでしまうほど衰弱した体になっても、いざ戦いとなれば敵陣に殺到し、これを大いに破った。近接戦闘では体格優勢な敵にも無類の強さを誇り、まともにぶつかってゆけた戦闘において負けたことはない、というのは敗軍の弁としてはみっともない言い草なのかもしれないが、それは何らの強がりでもなく、純然たる事実であった。後世の人は日本軍の必勝の信念を嗤うけれど、彼らは口を揃えて言うのである、どれだけ敗色が濃くなろうとも、最終的な日本の勝利を疑う気持ちは湧かなかったのだと。敵を見る事なく、どこからともなく降り注ぐ爆撃と砲撃に追いまくられていた日本軍兵卒にとっては、「敗けた」というより「避けた」に近い感覚だったという。童子が刃物で突き掛かってきても、人はそれを一応は避けねばならない。避けるということそのものからだけでは、敗北感は生じなかったのである。
そして、戦闘で見せた斯様な強さ以上に頼もしく思われるのは、絶望的な飢餓の中でさえ見られた人間性の蘇生であり、それはマッチの火のようにか弱く、消えやすいものだったかもしれないが、戦場の暗黒中に点ぜられた希望の光だったのである。
他の部隊にまじって腰を下ろしていると、横の兵隊が、
「一つどうぞ」
と言って、タビオカ芋の煮たのをくれた。(中略)
そのうまかった事。それよりも嬉しかったのは、この初めて会った人の温かい心だった。(中略)
私はお礼の言葉も知らなかったが、この人こそは、我々はまだ野獣と違うことを、人間であることを、私の心に深く刻んでくれたのだった。(『地の果てに死す』)
繰り返すが、全将兵が餓鬼と化したニューギニアの地で、食べ物を分け与えるということは到底考えられないことだったし、餓え苦しむ者の方とて端から期待もしないことである。何気なく芋を渡すこの人も、ここヤカチに至るまでは沢山の悪もろともに、愛しい人間としての記憶を磨滅させてきたに違いない。
思えば、人の善性は、このようにしか現れないのかもしれない。ままならない浮世は、人をして愛する人さえ傷つけさせる。自らを偽り、裏切ってしまうこともある。そんな中にも、ふとした時、赤い心に戻る我が立ち顕れる、この時ばかりは相手にとって仏に見えたかもしれない。だが、事実は違った。彼こそ、それを見る我と同じく、懸命に戦っている人間なのであった。
それでも人には差別があった。生まれ持ったものは争えないという厳しさがあったのであり、徹底した個人主義となった飢餓戦場はそれを改めて突き付けた。
乏しきを分け合う、という。が、こんな厳しい窮乏のなかにあっては、分け「合う」ことはありえない。生きる知恵・体力によって、分ける側と分けられる側の二つに類別される。常に一方的である。分け合うほど、生っちょろいものではないということでもある。自分の手で、何かを探り取ってこなければならぬとなれば、その能力は決定的である。(『野哭 ニューギニア戦記』)
持てる者とて、明日はマラリアで動けなくなるかもしれぬ。少々手許に食料があったといっても、それを渡してしまうことは、そのまま自分の生存可能性を下げてしまうことを意味した。彼らが生きたのは、常に現在であり、明日は無かった。日常に継続性が認められないとき、人は道徳的であることが難しくなる。旅の恥はかき捨て、後は野となれ山となれ、皆そういう事情を言ったものだろう。見ず知らずの人間になけなしのイモを恵んでやること、瞼を開けることさえ難儀なときに、戦友の世話を焼いてやること、それは親切の一語で済まされるものではあるまい。だが、ニューギニアの地獄には、その小さな、可憐な花が、ここにも、あそこにも、花開いていった。
男同士が命をかけ、激しい戦線で育てられた真の友情である。たがいに階級も地位もない。地獄に仏に逢った思いに、熱い涙が飯盒に落ちる。炊きたてのめしよりも熱い涙を止めることはできなかった。(『地獄の戦場 ニューギニア戦記』)
容易なわざではなかった。それを手渡した当人とて、時に戦友を置き去りにし、背中に虚ろなまなざしを感じて暗い行路を辿ったのである。何気なく貴重な食糧を分けてくれる仏のような人間の内にはやはり、人間であることの記憶と、飢餓に支配された生存本能との暗い、しかし人間のうちでもっとも気高く真剣な闘いがあった。
栄養失調のため、顔は見るも無残に腫れ上がって、眼も見えないようである。手も足も、象の足のように腫れている。(中略)寒気がして仕方がない、迷惑とは思うが、今夜一夜、火の側に置いていただけないだろうか、という頼みである。身を震わせながら、何度も「お願いします」と言った。(中略)
「とても無理だ。なあ、みんな」と隊長は一わたりわれわれの顔を見渡した。拒絶を強いる眼つきである。誰も、何とも言わなかった。連帯感は、自分を中心とする極小の円周に限られてしまっていたのだ。病兵は、一礼して黙って立ち去った。(中略)
二人は病兵を追った。火の気のない暗い小屋のなかに倒れていた。「おれたちが、火を燃やしてやるから、あたたまれ。芋はあるか、煙草はあるか」と、K曹長は、かいがいしく動いた。バナナの枯葉に、煙草を巻いて火をつけ、口に入れてやった。泣いたのか、笑ったのか、かすかに表情がくずれた。泣くとか、わめくとかいうような感情は、とっくの昔に忘れてしまったのかも知れない。疎外の悲しささえ、もはや超えているのではないか。われわれの芋を飯盒に入れて、枕もとに置いてやった。Kは、「ほかにしてほしいことはないか」とたずねたが返事はなかった。終始、石のように一言も口をきかなかった。
その夜、なかなか寝つかれなかった。(中略)「ここで、親切らしいことをしてみても、けちな自己満足に過ぎんのだ。あのガリの転進で何を見たか。畜生道に堕ちた浅ましい人間の姿だ。しかし、おれたちだって、ただ避けて通っただけで、人を助けてやったことがあっただろうか。自分のことだけに汲々とし、人を顧みる余裕もなかったということにおいては、そいつらと同じではないか。もう、ごまかしはきかんのだ。ここまでくれば、人間も雑魚に過ぎん。万物の霊長なんて、ちゃんちゃらおかしい。自分のこと以外に考えられるか」と、K曹長は忘れろと言いながら、自分自身への怒りをぶちまける。(『極限の中の人間』)
夜起き出して小屋を覗くと病兵はおらず、安堵を覚えたという。その病兵は死の影そのものであり、見る者の内に灯されたエゴの火は、懸命に生きんとする者の良心を咎め、善良な兵たちの心の内に、いつまでも疼く火傷を残していった。
何より、死にゆく者の運命は変えられるものではなかった。倒れた者の多くには、はっきりと死相が認められた。今ここで人間として施しをする相手が、はたして生命を宿した人間であるか、それすら怪しかった。置いてゆかれる我が身の境遇を重ね、俊寛の歌を口ずさみながら隣りで横たわっていた者の声が途切れる。おい、どうした、死んだのか、……死んだ。そういう日常であった。転がり落ちる石を止められる力は、誰にもなかったのである。
「天田が死んじゃったア、天田が死んじまったア」
追いついてきた曹長は流れる涙を拭うこともせず、母親の様にしてかいがいしく世話してやっていた兵隊の死を告げた。
「曹長殿、天田を置いて行って下さい。天田はもう駄目なことを知っています」
これには答えず、曹長は彼の額に掌をやって昨夜より幾分下熱していることを確めた。
「俺がいま飯の用意してやるから待っているんだよ」
含めるように言って、水筒と飯盒を提げて谷へ下りて行った。
岸辺に生えている先行部隊の獲り残しの水草を摘んで、少し時間がかかり、岸を這い登ったその時、曹長の耳膜を破る一発の轟音を聞いた。天田が己れが運命を知り、曹長の足手まといになるのを恐れて、自ら手榴弾自爆した消魂の音であった。
曹長は引き裂かれた天田に走り寄り、あまりの悲しみに持った水筒も飯盒も投げ出し、しばらく呆然と立っていたが、こみ上げる悲しみの憤懣に似てか、天田の屍を敲いて泣いた。
「馬鹿バカバカ…こんな場で死におって! 何んと言うお前は馬鹿だったんだ。俺の気が分からんかったかようお前は」(『魔境 ニューギニア最前線』)
助けてやりたくても何もしてやれない。身を切られる思いで、自らの命を切り分けるようにして差し出しても、彼らを救いあげるだけのものとはなり得ないのである。ある者は、山中で出遭った捨て子に握り飯を与えただけで救いあげなかった芭蕉の、「父を怨むなかれ、母を怨むなかれ、ただ汝が運命のつたなきを嘆け」、という文句を思い浮かべたという。
だが、かかる苦しみの中で人間を信じさせたものこそ、この善意と良心の儚い灯であった。戦争が人間らしい感情を徹底的に破壊した後に訪れた陰鬱な黄昏にあって、人間を勇気づけたものはやはり、人間に他ならなかったのである。人間の脆さを目の当たりにすることにより圧倒的な人間不信が支配した死臭漂う密林において、人間の記憶を、血の通った人間の最後の閃きを探し求める眼差しがなお残り、そしてその眼に、人間のけなげで美しい、懸命な努力が映じたことは、我々を勇気づけるものでなくて、いったい何であろうか。
この数日、両眼を失明した戦友を守る四、五人のグループと相前後して歩いていた。
(中略)美しい友情を畏敬の念をもって見守っていた。川でタオルを浸し、水を飲ませてやり、手をとって渡っていった。いつも静かなグループである。絶えず、みんなでとりまくようにして歩いている。ロープを伝い、辛苦しながら絶壁をよじのぼってゆくのを、じっとみつめていた。(中略)ここまで辿って来た友情の支えは、何ものにもまして尊いものに思われる。心が洗われるような気がする。同時に、その美しさに比例して、絶望の黒い渦が、そのグループの周辺をとりまいているような気がしてならなかった。
(中略)危機をはらんだ美しさを、祈るような気持で見守らずにはいられなかった。はかなくして、しかも確かな友情を―。(『極限の中の人間』)
日本の兵は、南冥に浮いた魔の島にヒューマニズムの痕跡を残した。全員が横並びの獣に戻されつつ、自らの内に、いや、それ以上に他者の内に、人間の疼きと懐かしい記憶とを呼び覚ましていった。誰もが孤独な個人を生きたが、そのどん詰まりで待っていたのは、人間は孤独になどなれないという事実だった。
われ、孤独を愛す、などといったかつての日の気障な思い上がりを恥ずかしく思う。所詮、人間は「世の中」であり、孤独云々も相対的なものでしかない。「おれ」「おまえ」の対話の上に、甘えた孤独感でしかないのだ。(同)
我先に生を争う飢えた兵や死に行く兵とて、骨と皮ばかりの体に流れるのは、赤い血である。人の心に触れれば、その時ばかりは涙を流して人心地に戻った。
だが、戦場は容赦がなかった。人間に還れる瞬間は、果てしない苦痛の持続の中で、ひと時の晴れ間のようなものでしかなかった。すぐに厚い雲が地表を覆った。救われた思いがしたその一瞬後には、長い長い孤独な戦いが再開したのである。
そんなひとりの戦いにあって、忍び寄る自棄の衝動、もうどうにでもなれ、生も死も、いったいこの苦痛の前に何の意味があろうか、おっ母さん、俺は俺であることを辞めます…、そういう気分は、あらゆる兵の内にあったろうと思う。自分が自分であること、郷里の父母の息子であること、日の丸をうち振って見送ってくれた幼い弟妹の兄であること、あの日二人で将来を語らった恋人であること、それは彼らにとって泣きたくなるほど忌まわしいものであったに違いない。俺はもう俺じゃないんだという慟哭から逃れる術はなかった。
ではいったい、何が彼らをこの死に至る陥穽から救ったのか。何が闇夜に灯火となって彼らを歩かせたのか。自分が自分であることから逃げさせないものは何であるのか。極限状態におかれた戦場で、もうろうとする意識の暗室の中、ふいに本来の自分を選び取らせ、記憶に違わぬ我でいさせるものは、いったい何であったのか。
ここに、思い出すべき存在がある。戦い以前に戦争そのものによって人間が廃滅していったニューギニアの闘争は、いわば日本の独り相撲であったから、登場人物は自ずと日本の兵隊に偏重してきた。然るに、この島にはもとより人が居た。彼らは一万年前そのままの姿で暮らしていたが、近代文明の末子たる日本兵の到来に、些かの動揺も示さず、彼らのありのままの姿で向かってきた。鉄の化け物に弓矢で応ずるが如く、彼らは純朴な魂を裸のままでぶつけて来た。彼らの気高さや慈愛を前に、うらぶれた文明人たちはうなだれることしか出来なかったのである。
道路偵察に出て、坂を斜めによじのぼっていたとき、石がずり落ちて、危く膝をついた。案内を頼んでいた土民は驚いて、むんずとばかりに手首をつかまえてくれた。それからは、危険なところは無理に手をとって渡そうとする。全身をもって、かばおうとする気持ちが素直に感じられた。土民に接してまだ間のないころのこの感じは、最後まで覆らなかった。人間の底辺にあるこの大事なものを、すんなり身につけているかれらを不思議に思う。(『野哭 ニューギニア戦記』)
腹が減ったから盗んだという論理に、何の説得力があろう。(筆者注:農園から作物を盗んで追われた筆者らを、酋長は腹が減ったならそういえばよいと言って許した上に食べ物を与えた)かれらの厚意を感謝しつつも、人間的にはかれらの方が数等上ではないか、という気がしてくる。見下げ果てた行為を、かれらは高いところからせせら笑いながら、恵んでくれたのではなかったか。しかし、その表情には、もっと信実なものがあった。ただ、寛容と人情しか感じられなかった。かれらの精神構造は純白なのだ。素直に喜び、感謝すればいいのかも知れない。(『極限の中の人間』)
転進のとき、兵隊が安全剃刀の刃と、バナナとを交換した。それを見ていた将校が、その刃は錆びていて切れないものだ、兵隊のやり方は背信行為である、となじってその交換をやめさせた。土民も交換中止を承服したが、宙に浮いたバナナは、そのまま将校の手にはいった。(中略)将校は執拗に兵隊を大声で叱りつづけた。「日本人として恥を知れ」とか、「皇軍の威信にかかわる」とかと御託を並べた。見え透いたポーズが、何とも嫌味だった。(中略)
その夜、その老人はバナナを五、六本もってきて、その兵隊に食えというのである。ピジンが通じないので、言うことはよくわからなかったが、「自分のことで叱られて、すまない。これは少ないが、食ってくれ」というようなことらしい。手真似を加えながら、何度も頭を下げ、眼には涙さえ浮かべているのである。けちな、われわれの倫理を超えた、「人間」の温かみに触れて感動した。初めから、剃刀の刃などいらなかったのではなかったか、痩せさらばえた兵隊をあわれんで、くれようとしたのかも知れない、そんなことを考えながら、ここでも負けたという気がした。(同)
自然へ帰れ。そういう詰まらぬことを言うつもりはない。そんなものは稚気だと思う。楽隠居が山荘かどこかで宣う暢気な戯言ではないか。人間の歩みは、どんな時でも不可逆なのだ。その歩みが個人のものか社会のものかも問わない。歩いた道は、背負わなければならぬ。故郷を失うことはできても、故郷を捨てることは絶対にできない。私たちには、親父の頑迷から逃れることも、おふくろの蒙昧を嗤うことも許されていないのである。我々にできることはただ、そうした全ての因果を抱きしめ、なおしみ出してくる個人のしずくを愛おしむだけなのだ。
そしてそのひとりの人間がやっと集めた一杓の成果、自分だけのものだと思ったその成果とて、我ひとりのものではなかった。俺が俺であること、それが人間であり続ける原点だったが、それを教えたのは同胞であり、土民たちであった。獣心に等しいと思っていた我が心からあらゆる近代的な垢と見栄と力みとを拭い去ってくれたのも、またその奥深くに見失っていた幸福な記憶を思い出させてくれたのも、すべては親愛なる他者であった。自分を懐かしい故郷に帰してくれる者、それは常に、自分と同形の他者だったのである。
そのことに気付いた時、人は彼我溶け合うものを感じるのだろう。限りない信愛、限りない親しみ。自分自身であり得るということは、自らの中に汚れなき人間の魂を認めることである。偽りなき魂は、他者とも容易に邂逅していった。同じ記憶を、同じ人間であることを愛するようになったのである。そこには時として、敵味方の差別さえ忘れさせるものがあった。
「うっ!」と声をのんだ。出会いがしらに、敵の一兵にぶつかったのである。全く意表をつかれた椿事に、お互いそのままの姿勢で睨み合った。相手は、自動小銃を肩から吊している。睨み合っているうちに、相手の眼が笑った。同時にわれもかれも、くびすをめぐらして、もと来た道を一散に駆け下りてしまった。何ということだ。おかしさとともに、照れてしまった。銃をぶっ放すためには、相当の距離が必要である。人間の表情を見ながら、撃てるものではない、と覚った。(中略)笑った、ということが愉快だった。(『極限の中の人間』)
文明に促された死闘の中で、日本の兵隊たちはかくも得難い経験を重ねていった。
三月も塩を食えない山越えにあって、後生大事にもっていた半分、スプーン一杯の塩を何気なく与えたというY軍医は、飢餓の内にあって「おやじは絵かきだが、潔癖で、でたらめ略字を嫌う。少しは、おやじの信条も生かしてやらんとな」(同)といって草書体の練習をしていたという。彼は、〝心の勉強〟という言葉を使った。「頭は、明るい弦も暗い弦も、掻き鳴らすことができる。それをコントロールするのが心だろう」とも言った。この軍医が生還したかどうか、それはわからぬ。だが、彼が絶望の中でも人間の階梯を登り続けていた事実は決して消えない。その後ろ姿、我々現代人の遙か上で暗雲の中に消えた彼の姿を追って梯子に手をかけるのかどうか、我々に問われているのは常にそのことである。
思えば戦後日本人は、言うなれば芋の増産に努めて来た。だが、本当に目指さなければならぬのは、芋一切れを手渡せる人間になることである。芋をふやせばそれでいいと思っている我々は、いつでも自分自身を見失う脆さを抱えているのだろう。
ニューギニアの戦記から得られる訓えとは、およそこういうものではないだろうか。それはたしかに、日本民族が経験した惨めで悲痛な敗衄の中に咲く、清浄な勝利の花だった。その美しい花を一輪添えて、ニューギニアの話を閉じようと思う。我と同じ他者なるものに一個の芋を手渡す勇気。愛国心や同胞愛というものが、もし健康に存在し得るとするなら、こういうところにその創造の原点があると、私は信じる。
「あれ、江村軍医どの。無事ですか」
と声をかけると、軍医はゆっくりと首をこちらへ向け、どろんとした目つきで私を見ていたが、
「ああ、君か。よく無事だったな。もうわしは一週間も食っとらんのでな。何か食料はないかね」(中略)
「その袋の中にあるのはタロイモでしょうね。一つくれませんか」
と、江村さんは倒れかかるように近寄ってきた。現在の状況下では、イモの一個は千金にも換えられぬ価値があった。これを他人に与えることは、敗残兵たるわれわれの当時の心境として、とても思いつかないことであった。(略)この場合、江村さんに与えるべきイモはないと思う。私は静かに拒否した。
「そうか。しかたがない」
江村軍医は、一瞬泣きそうに顔を歪めて、歩き出そうとして、道のまん中の草むらに足をとられて、折れるように倒れた。自分の力では起き上がれないようすなので、私は近寄って彼をゆっくり助け起こした。私の皮膚と、江村さんの皮膚とが相接すると、今まで感じられなかった親近感が電流のように私の体内を走った。私はふとその時、この軍医さんに、一個のタロイモを与えようという決心がついた。
「くれるのですか。―めぐんでくれるんですか」
江村さんは私が彼の手に渡したイモ一個をおし戴くような恰好で受け取った。そしてその手を静かにおろし、ていねいにイモを地上に据え、両手を合わせて私を拝んだ。拝まれながら、私は静かに彼の顔を見つめた。見る見る、江村さんの両眼から涙があふれるのを見た。私の目からも、同じように涙が流れた。(中略)
彼はイモの皮もむかず、生のままでガシガシと食べ終わった。
「ああ。おかげでやっと人ごこちになりました。ありがとう。ほんとにありがとう」
といって歩きかけた。吉田少尉がその時、
「軍医さん。私もあげましょう」
といって、袋から一個のイモをとり出した。江村さんは、じろりと吉田の方をふりかえり、
「そうか。また呉れるんですか。ありがとう」
と静かにいい、そして私を拝んだように吉田を拝んだ。吉田が与えたイモは、ポケットにしまい込んだ。
「ありがとう。生きていたら、いつかお礼をしますから」
と、念を押すように低い声でいって、杖を突きながら、静かにゆっくりと、一歩一歩を踏みしめて、われわれから去って行った。われわれ二人は、少々照れたような気持ちで、顔を見合わせて笑った。(『ニューギニア戦記』)
第1章~第3章までは『表現者クライテリオン』2023年1月号(本誌p144~)にてお読みください。
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味気ない現代を離れて、一気に古典の世界に沈潜する、なんて芸当は自分には難しいな、そう感じていたこの頃でした。私は万葉集が好きです。けれども万葉人の声よりももっと生々しい声で、悲しい声で呼びかけてくる同胞たちの屍を、私は何も聞こえぬふりして跨ぎ越してはいなかったろうか。
私は日本人の戦争の問題を当然のように避けて通ろうとしていたようです。私に限らず、現代日本人のほとんどがそうではないでしょうか。それに対する忌避、黙殺、無関心ぶりは、まるで被差別民への態度に似てはいないでしょうか。
私の祖父もブーゲンビル島で戦った部隊の数少ない生き残りでした。そのことを知りながら、祖父がそこで何を見たか、何を感じたか、真実を知りたい——そんな風に歴史に誠実に向き合うことをしなかった。私の抱える不安や息苦しさは、そのことのつけが回った結果だと考えるのは間違いだろうか。私自身が歴史を見放し、そして歴史から見放されているからではないだろうか。私の絶望は、かつての祖父の絶望が、ただ形を変えただけかもしれないじゃないか!
この連載に出会ったのを機に、私も戦記を通して、極限の状況下に生き、戦い、死なねばならなかった彼等に寄り添い、もう一度私自身が歴史を生きなおさなければならないと思いました。そうでなければ、私はきっと歴史から見放されたままに違いない。本当に心から彼らのことを同胞であると感じ、信じなければ、古事記だの万葉集だのを味わう資格はないんだと思います。万葉人もきっと彼等には親しく寄り添ってくれるでしょう。しかし私たち現代人には、今のままでは、うそ寒い異邦人のまなざしを向けるだけではないでしょうか。