「葉隠入門」とわたし

辻井健太郎(京都府、28歳、会社員)

 

 久しぶりに手に取って感銘を新たにした書物に「葉隠入門」がある。昭和四十二年、三島由紀夫が自決する三年前に書いたものであり、この書物は道徳書として、人生論として、三島由紀夫の思想的自伝としていろいろな読み方ができる。そして、今も進行しつづけている現代人の精神の死に対する処方箋でもある。葉隠入門には次のような一句がある。「葉隠はそういう太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたものであった。この薬は、かつて戦国時代には、日常茶飯のうちに乱用されていたものであるが、太平の時代になると、それは劇薬としておそれられ、はばかれていた。山本常朝の着目は、その劇薬の中に人間の精神を病いからいやすところの、有効な薬効を見いだしたことである。」(P.23)

 日本人の平均寿命は年々延びてきている。そして、精神の死を恐れず、肉体の死を恐れるようになりつつある。というのは、戦後民主主義が立脚している人命尊重では、ただただ肉体の安全無事だけが論じられ、精神の生死ついては閑却されているからである。したがって、日本人は精神の死んでいくことを恐れなくなったため、社会からは緊張感がなくなり、政治家や官僚はすっかり身の危険を感じなくなってしまったのである。当然殺される心配がないから、いくらでも嘘をつくようになり、モラルが蝕まれ、非人間的になってしまったのである。さらに、偽善が蔓延るようになったのである。そこで、「葉隠入門」では精神の死を恐れること。つまり、今日が最後と思い死を心に当てて生きることが精神衛生上人間にとって必要であると説いている。精神の死を恐れる人がいるからこそ、社会に緊張が生じて、政治家や官僚は身の危険から真面目になるのである。もっとも、政治家や官僚だけでなくあらゆる職業つく人間についても妥当する。三島由紀夫は葉隠の理念についてこう述べている。

 「時は人間を変え、人間を変節させ、堕落させ、あるいは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか真実がないとすれば、時の経過というものは、重んずるに足りないのである。重んずるに足りないからこそ、その夢のような十五年間を毎日毎日これが最後と思って生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。」(P.39)

 この理念は日本の文化を守るということにもつながっている。日本の文化ははるか昔からつながってきているが、それは、その時代その時代の日本人が日本の精髄をになって、この瞬間ここに立って、そこで自分が終わるのだという思いを持っていたからである。そうやって、自分のところまで文化を死に物狂いで守らなければと思っている若い人が次々と出てくるからこそ文化はつながっている。けれども、現代人、特に今の政治家や官僚に今自分たちが文化の最後の成果で自分たちのところで文化が終わるから今それを死に物狂いで守らなければならないと考えているものが果たしてどれだけいるだろうか。われわれ日本人自身の中に文化があると思っているものがどれだけいるだろうか。日本文化を守れるか否かは現在ただいまを生きているわれわれ日本人が日本人としての最終的な誇りをもっているかにかかっている。普段忘れ去られがちな日本人の生死をこの戦後の平和のなかで、考えなおしてみる機会を「葉隠入門」は与えてくれているように思える。