「みんなで決める」ことの光と影

小西正雄(鳴門教育大学名誉教授)

 

Ⅰ はじめに
 世に誤訳は少なくない。パールハーバー(真珠港)を「真珠湾」とまちがえて早や80年経つ。「港」が「湾」だからさしたる罪はないが、United Nations(連合国)を「国際連合」だとわざと誤訳した外務省の役人の罪状は相当なものである。しかしこれらに比すべくもない天下の大誤訳は、デモクラシーを「民主主義」とした例である。明治時代に西周がデモクラシーなる外来語を「民主」と訳したとのことだが、いつのまにかこれに「主義」なる無責任な尾ひれがついて今日に至っている。先日バイデン大統領が110ヵ国を集めて「Summit for Democracy」をオンラインで開催したが、NHKほかマスコミは、これを「民主主義サミット」と言い替えて平然としていた。サミットに反発した中国が反米プロパガンダの冊子を出したのだが、さすがにその表題には「中国的民主」とあって余計な二文字はついていなかった。
 佐伯啓思氏がかつて指摘したように、「民主主義」ならDemocratismであって、明らかにこれはイデオロギーなのだが、日本の学校では「特定のイデオロギーを注入してはならない」としながら片方で「民主主義を護れ」と叫んでいて、そのダブルスタンダードを誰も怪しまない。奇観である。もっとも、学校の「校」は木が交わる、すなわち十字架を意味していて、カルチュラルスタディーズ風にいえば近代公教育制度の根幹たる学校は一種の暴力装置であり、それじたいがイデオロギー性を免れないのならば、学校で民主主義を教えるのもとりあえず許容しておこうという「大人の態度」も現実的な対処にはちがいあるまい。
 ただし、「民主主義とは民主政を正当とするイデオロギーである」としてその妥当性をいうのならば、それに先立って民主政の妥当性を云々しなければならない。思いきりざっくりといえば「みんなで決める」ことの妥当性を問わねばならない。本稿のタイトルはこの意である。

Ⅱ 影、その① -総選挙の開票結果から-
 10月31日に投開票が行われた先の総選挙で興味深い現象があった。わが兵庫6区では立候補者3人が全員当選したのである。同様の珍現象は京都1区と奈良1区のあわせて3選挙区で起こった。もちろん3人のうち1人が選挙区での当選、あと2人がいわゆる比例復活だから怪しむには足りないが、2人区での全員当選はよくある一方で4人区での全員当選はまずありえないから、この3人全員当選という現象は、そこそこ珍しいといってもいいだろう。
 今次の選挙では有権者1人が2回の投票を行ったので複数の当選者が出てもおかしくはないのだが、じつは1回の投票で5人の立候補者全員に当選の可能性があるという奇怪なモデルをジョン・パウロスが30年前に発表している。この「全員当選モデル」は、方法さえ工夫すれば結果をどうにでも左右できるということを示したもので、この種の指摘としては、「もっとも賛成の多かったもの」と「もっとも反対が多かったもの」が一致するというコンドルセのパラドックス(1785年)がよく知られている。
世上、「みんなで決める」手っ取り早い方法は多数決とされているが、たとえば国連総会の決議やさきのICPOの執行役員選挙のように、経済支援を餌にアフリカの小国を多数味方につけてしまえば思いどおりの結果を得ることはたやすい。単純多数決は、「個人よりも多数の集合に開明と英知があり、その意味で、立法者の数がその選択(の結果)よりも重要だと考える。これは知能に適用された平等の理論」(トクヴィル)にほかならないのである。
結局のところわれわれは、多くの場合、それが妥当な「決め方」なのかどうかを脇に置いて、「多数決でまあいいんじゃないの」という前提で社会的決定を容認しているにすぎない。ケネス・アロウは、多数決以外にあらゆる決め方を論理的に検証して、1972年、「不可能性定理」を打ち立て、のちにノーベル経済学賞を受賞した。完全に民主的な社会的決定方式は存在しない。つまり「みんなで決める」ことは、論理的に考えるかぎり不可能なのである。 

Ⅲ 影、その② -主権者教育の話題から-
 ちょうど総選挙前だったからであろうか、10月末のある日のこと、お昼のワイドショーが主権者教育について取り上げていた。まず紹介されたのが「ミニミュンヘン」の話題で、これはミュンヘン市の郊外に疑似都市を設定して、子供たちが政治活動や経済活動を体験するというものである。夏休み3週間だけのイベントにすぎないが、主権者教育としてそれなりの意義はあるにちがいない。次に紹介されたのがわが国の高校での実践。ちょうど総選挙前だったので各政党のパンフレットなどを生徒が持ち寄ってそれぞれの政策を発表しそれをうけて全員で投票してみるという、これまでも何度となく紹介された「投票ごっこ」である。そして最後に紹介されたのが、小学校の実践だったと記憶しているが、学校周辺の不都合を改善するべく子供たちが話しあって、その結果を役場に持ち込むという「陳情学習」の例。
 わが国の「投票ごっこ」や「陳情学習」がなぜ主権者教育たりえないのか。話は簡単である。これらの実践は「選ぶ練習」「お願いする練習」にはなりえても「選ばれる練習」「お願いされる練習」にはなりえないからである。デモクラシーとは「選ぶ人」と「選ばれうる人」がイコールになるような政治システムである。専制的独裁政治やAKB選抜総選挙との決定的な違いがここにある。したがって「主たる権力者」は、「統治される側」として、権力の評価や決定を行いや権力に対してなにがしかを要求すると同時に、「統治する側」として、権力を行使し強制しその保全を図るという使命を全うしなければならない。
主権者教育においても同様の構図は必要だから、当然のこととして学習者は、当事者としてふるまうと同時に「非当事者」のことも視野に入れる必要性に迫られねばならず、「当時者」(現住者)としてふるまうと同時に過去の選択結果や未来の選択結果にも責任を負わねばならなくなる。つまり、「統治される側」と「統治する側」の一人二役をこなし、利益相反に苦しむ経験を伴わなければ真の主権者教育とはいえないのである。
エドマンド・バークはフランス革命に事寄せて指摘する。「当の計画のもと、人々は一種の教育を受ける。まずは人間の物理的欲求について学び、続いて自分の利益を合理的に追求するように仕込まれる。そうすれば合理性のもと、個人の利益と社会の利益は一致するようになるというのだ。何についても新しい専門用語をつくり上げないと気がすまない革命家は最近これにも名前をつけた。すなわち公民教育である」。要するに「みんなで決める」ことは可能だと仮定したとしても、一人二役が現実にはかなり困難であることに思い致すならば、「みんなで決める」ことにはつねに不完全性が伴うことを、我々は受け入れていかねばならないのである。

Ⅳ 影、その③ -ある「的中した予言」から-
「ここでは、国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と生き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ」、「個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような支配者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね」。
 これがアメリカの前大統領トランプ氏とその周辺のことを指しているとするのはあながち無茶な連想ではあるまい。この予言はしかし近々になされたものではない。ずっと以前の予言がたまたま「当たった」だけのことである。予言者は、トランプの4文字のアナグラムであるプラトンである。じつに2400年以上も前の予言である。プラトンはまた以下のような予言も残している。
「このような(引用者注:平等思想が行きわたった)状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をと
り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる」、「つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課されると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ」。
  これらの予言が、学級崩壊や学校崩壊、SNS上での誹謗中傷など目を覆いたくなるような現代日本の規範の崩壊を指しているであろうこともまた想像に難くないであろう。自由や平等の過度の追求が、民主政を衆愚政に導くことは、プラトン以後、政体循環論を唱えたポリュビオスや多くの思想家によって指摘されてきた。バークは「完璧な民主主義こそ、もっとも恥知らずな政治形態なのだ。そして恥知らずということは、とんでもないことを平然としでかすことを意味する。<中略>だからこそ、『民意はつねに正しい』という発想を許容してはならないのである」と述べた。
 多くの先哲が吐露した疑念とは、われわれは「みんな」として不適格ではないかという疑念である。そしてだとするならば、「みんなで決める」ことの不適格性をも、われわれは受忍しなければならないことになる。

Ⅴ 光への展望 -「みんな」の再定義-
理論的につまり理性的に考えた場合、社会的決定は不可能になるというのがⅡで紹介した不可能性であった。Ⅲで論及した不完全性に関連して紹介したバークも合理性について疑義を呈していた。理性的存在として人間を捉えることの限界を示したのがⅣの不適格性であった。このように俯瞰してみると、どうやら「みんなで決める」ことの是非論に立ちはだかっているのは「理性」のようである。ならばいったんそれを脇に置いてみてはどうか。そこに「光」への展望が開けてくるのではないか。
 ここで想起したいのがチェスタトンの言説である。彼は言う。「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人のことである」。そして彼は理性に対してよりもより大きな期待を「時間」に求めたのである。それが、しばしば引用される以下の一文である。「単にたまたま今生きて動いているというだけで今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬ」。
われわれは神ではないから成功もあれば失敗もある、そのときどきの「みんな」の判断などは必ずしもあてにはできない、ならばせめての策として「みんな」に過去の人々も含めることで合意形成の人数を増やして価値判断のブレを希釈してはどうか‥というのである。昨今流行のグルメサイトのように「みんな」の意見を集約することにも意味はあるだろうが、そうやって上位に選ばれた店がはたして50年後にも繁盛している保証などどこにもない。世論の「瞬間風速」はネット社会では日常茶飯事である。一方でたとえば100年続いているうなぎ屋があったりする。それは100年の間、多くの人がそのうなぎ屋の味に賛意を示し続けた結果である。ネット投票とは比すべくもない重みがそこにある。
オルテガは「大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。この《みんな》が本当の《みんな》でないことは明らかである。《みんな》とは、本来、大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との複雑な統一体であった。いまでは、みんなとは、ただ大衆をさすだけである」と述べたが、チェスタトンはさらに踏み込んで、大衆の存在を前提としつつ、民主主義だ多数決だというのなら「当時者」以外の死者(膨大な数の大衆)も「みんな」に含めるのは当然のことではないかと主張したわけである。

Ⅵ おわりに
本稿では、先の総選挙や主権者教育などを切り口として、不可能性、不完全性、不適格性をキーワードに「みんなで決める」ことのある意味での限界について述べ、それに対する処方箋としての保守思想の意義についてまとめてみた。最後に教育について付言しておこう。
日本の戦後教育はアメリカ由来の進歩主義に彩られてきたから、人間理性に過剰な信頼を寄せ「我々が頑張れば世の中は必ずよくなる」と子供たちの有能感を限りなく刺激し続けるのが学校の常識となっていて、人間の理性に対して一定程度懐疑的である保守思想が学校で紹介される余地など皆無であった。 バークが「民主主義が機能するためには、民衆はエゴイズムを捨てなければならない。宗教の力なくしてこれは全く不可能と言える」と指摘していたにもかかわらず、我が国では、宗教をはじめ伝統や道徳の意義を正面きってとり上げようものなら民主主義に反するなどという的外れな論難にさらされもした。図(拙著『君は自分と通話できるケータイを持っているか』から転載)は、間接民主制や市民運動などの既存の「決め方」と、チェスタトンのいわゆる「死者の民主主義」との位置取りを試論的に示したものであるが、このような視座が教育論議で示唆されたという例を寡聞にして私は知らない。
伝統的な知識教育すなわち「知」や最近重視されるようになった主体的判断や意思決定などの「意」とともに、道徳の尊重、伝統への敬意、慣習への配慮、宗教への理解などの「情」にもほどよく目配りをして「知・情・意」のバランスのとれた教育の実現を‥、というのが、その内容に相応しい本稿のありふれた結論にほかならない。