「価値」のクライテリオン

城前佑樹(書店員、26歳、東京都)

 

 去年の大晦日、私は「NHK紅白歌合戦」をテレビで流していた。
 同じく視聴なされた方はどのようにお思いだっただろう。ヒット(したと宣伝される)曲のわからなさに鼻白んだだろうか、もしくは「感動をありがとう」というような予定調和の司会進行にうんざりしてチャンネルを回しただろうか。
 意外や意外、私自身は心を動かされる場面が何度もあった。もちろん辟易した場面も多々ある。しかし、去年のヒットソングを大半知らなかったものの、数々の歌そのものに心動かされた(特に細川たかしを筆頭に演歌歌手たちの歌唱力、藤井風のパフォーマンス力には目を見張った)。
 昔からひねくれて「紅白」に出ているような歌手を白眼視する方であったから、そのような己の見方に自分でも驚いてしまった。一体私はこれまで何をもって歌手・歌の「価値」を決めていたのか。もしくは最初から歌そのものなど聴いていなかったのではないか。歌自体を聴かないで、事前に貼られたレッテルで趣味を判断していたように思われる。そしてその判断基準はもれなく人様に依存したものだった。やれ若者に人気であるとか、やれ流行りのネット発だとかいう前情報に踊らされていたのだ。「流行りだから好き」という「純朴」な人たちとコインの裏表であったことに気づかずに。
 以上述べたことは「歌謡曲・ポップソング」という一ジャンルのことに過ぎない。だが、価値基準・クライテリオンにまつわる点で貴誌とも関わってくる。政治には政治における価値基準がある。すなわち現実的に多数の生活を改善することだ。間違っても人気稼ぎや議席取りではない。ましてや「ロックダウン」やカタカナ語やコロナ感染者数を宣伝することでは毛頭ない。経済には経済における価値基準がある。世を治め、民衆を救うことである。金稼ぎでも投資でも株式運用の仕方の宣伝でもない。分野は何であれその価値基準を見失った時、(私の「紅白」への積年と同じように)批判と支持がどちらとも意味をなさなくなる。本質に基づく自立的な姿勢による判断ではなくなるからだ。同じ理由で、一つの分野における価値基準を他のことに流用するのも罪深い。物を見る時は、その分野における本質を見極めなくてはなるまい。
 大分昔のことになるが、「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」と謳った平成の人気曲があった。その曲の音楽としての価値は置いておくとして、その文句の相対主義的価値観はもう通用しない。その「純朴さ」は令和時代に至り、クライテリオンの重要性を霧消させようとしている。そして裏返しの偏狭なイデオロギーに固まった、批判一辺倒の空気すら生んでいる。今こそ胸に手を当てて、「オンリーワンでいい」という慰めが真に自立的だったかを考える時だ。価値基準を定めることはそのような生温い物ではないであろう。