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六月の表現者塾について

山田啓文(塾生)

 

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第五期第三回(六月十日)
 「言語と思想、および、言葉とその魂の関係について
――ウィトゲンシュタイン、日本語の観点から」
 講師:古田徹也、司会:浜崎洋介
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 六月に登壇される古田氏は一九七九年生まれ、二〇〇八年に東京大学博士課程修了。現在は東京大学と放送大学で教鞭を執る新進気鋭の研究者である。古田氏の研究テーマは二つに大別される。運や不運などの偶然性の問題や懐疑論と実在論の相克を扱う倫理学、そしてウィトゲンシュタインをはじめとする言語哲学である。

 ウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論をベースに、言葉の形態(かたち)と倫理の関係について書かれたものが、二〇一九年にサントリー学芸賞を受賞した『言葉の魂の哲学』だ。

 本書の主眼とすることは「はじめに」で明確に語られている。それは、「言葉に魂が入ったように表情を宿し始めること。ありふれた馴染みの言葉がふと胸を打つこと。言葉の独特の響きや色合い、雰囲気と言ったものを感じること。あるいは、それらのものが急に失われ、魂が抜けて死んだように感じること」が日常生活や社会にとってどのような重要性があるのかを探求することである。

 ここでいう「言葉に魂が入る」とは、単なる記号列でしかなかった言葉が奥行きのある立体的な言葉として立ち上がってくること、もっと簡単に言えば「その言葉がしっくりくるものと感じられる」ことだ。

 たとえば、本著では「むつごい」という形容詞が取り上げられる。この讃岐地方(特に香川県)で使用される形容詞は「脂っぽい」、「味が濃い」、「くどい」、「ごちゃごちゃしている」など実に多様な意味を持つ。実際、私自身もこの言葉を初めて知ったが、例文を検索して何度も反芻するうちに、朧気ではあるが「むつごい」という言葉が持つ多面体の輪郭に触れているような感覚が確かにあった。

 古田氏はこのような体験を「言葉の立体的理解」と呼ぶ。それは換言すれば、類似した言葉同士を比較検討して言葉の持つ手触りを把握することである。そして、私たちはそのプロセスを経て初めて、しっくりする言葉を選び取る実践が可能になるのだ。

 では、しっくりする言葉を選び取る実践が何故それほど重要なのだろうか。この疑問に古田氏はクラウスの言語論を参照しながら、しっくりする言葉を選び取る行為は「最も重要な責任にもかかわらず、最も軽んじられている責任」であり、この実践が出来なければ、人は言葉を扱うための重要な倫理までも喪失してしまうのだと力強く返答する。

 しっくりした言葉を選び取ろうと真摯に実践すること。それがウィトゲンシュタインとクラウスに通底する倫理なのだ。確かに、私たちは良く分からない単語や常套句を使って何となく会話をやり過ごしてしまう。このような経験をしていない人はいないはずだ。

 ただ言葉に誠実であること。しっくりくる言葉を希求すること。単純に思える言葉に対する倫理こそが現代社会において最も軽んじられているものなのかもしれない。言語と思想、そして言葉に対する倫理。これらについて講義の中で魂が宿った言葉が紡がれることを期待したい。