LGBT法案騒動に対する違和感
−グローバル・スタンダードはあまりに騒がしい
仁平千香子
LGBT理解増進法が成立した。
あまりに強行的に可決された今回の法案であるが、日本に本当に必要な法律なのかについて疑問を持つ国民は多い。性的マイノリティが日本にも存在することは確かであるし、他の国民と同じく、彼らがその身体的特徴や嗜好によって社会から排除されることがあれば、それは問題である。一方で、類似の法律がすでに存在する他国と比べて、日本における差別がどれほど強いのかについては十分検討がなされていないようにも思う。少なくとも日本には、同性愛者を火炙りや鞭打ちの刑に処すような迫害行為や、電気ショックや投薬を通して異性愛者に転換しようとする医療行為、道を歩く同性愛者に対して石を投げたり大声で誹謗中傷する習慣も、同性愛者であるために職業の選択が限られたり、住居の購入を限定されたりという制約もなく、過去にもなかった。これらが日常としてあった、または現状としてある国にとって、彼らの権利を保護しようとする運動は必要であろうが、日本は果たして比較対象になるほどの差別の歴史を持っているのだろうか。
困っている人がいるなら助けたい、多くの人はそう思うだろう。性的マイノリティであることで生きにくさを感じている人がいるなら、私たちにできることをすべきだ、これも正論だろう。日本人的な他者へのおもいやりは大事にすべきだ。しかし一方で、ある一定のグループに対する特別な待遇が結果として彼らの生きにくさを増幅してしまうケースもある。
例えば、格差の是正措置対策として、黒人やヒスパニックの学生を優遇して入学させるという試みをアメリカのエリート大学は行ってきたが、実際は授業についていけず退学する学生が多いという統計が出ている。弱者を助ける目的で行った優遇措置が逆に落ちこぼれと自分を卑下してしまう若者を増やしているのだ。
入植以来オーストラリアの原住民であるアボリジニーを大量に虐殺し、大陸の一部の地域にのみ居住が可能なように至らしめた白人たちは、過去の行為への償いも含めてか、1967年より手厚い福祉給付金や失業保険金の給付を続けているが、これらの支援は彼らの就労意欲を低下させ、補助金の多くをアルコールに使う中毒症の若者を増やしているという現実もある。
これらの例でわかるように、特定の少数派への優遇措置は、その社会が過去に行った迫害行為に対する賠償としての意味合いがある。それらの迫害の歴史が日本に見当たらないのであれば、法案の必要性はやはり低いと考えるのが妥当であろう。
今回のLGBT理解増進法にしても、日本に住む当事者たちが実際にありがたく思っているのかは疑問である。むしろ今回の騒動によって、女子トイレや銭湯に女装をした男性が侵入する可能性についての議論が白熱し、LGBTの人々が女性や子供を脅かす危険な存在というイメージが固定されてしまったという印象もある。マイノリティを保護する目的が、彼らへの国民の警戒を強めてしまったのであれば、彼らの望むところでは決してないだろう。
今回の法案が、内側の必要に駆られてというより、政治的外圧による結果であったことは数々の保守論者からの指摘の通りである。ホワイトハウスに掲げられる星条旗がレインボーの旗に代えられている写真を紹介しながら、日米同盟が「日ゲイ同盟」になっているというジェイソン・モーガン教授の指摘はわかりやすかった(チャンネル桜「討論」R5/6/30https://www.youtube.com/watch?v=GDNZ9UNCSfA)。
加速するアイデンティティ・ポリティクス(人種、民族、性別、性的嗜好、宗教などに基づく特定の集団が被る差別や不正義を「正す」ことを目的に起こされる運動)は、いまや政治と切り離せない。不当な差別に苦しむ人がいるのであれば、彼らに手を差し伸べたいと願い、行動を起こすのは善行と言える。しかし残念ながら、現状は感情煽動を通してマイノリティが自らの犠牲者像を強固にするようしむけ、既存のシステムや権力に過度に牙を向ける賛同者を募り、社会の安定を崩す目的に利用されている。特定のマイノリティ集団の利益のために起こした善良的行動が、実は暴力と混乱に満ちた社会作りに貢献しているかもしれないのだ。
大衆を動かすには知性より感情に訴える方が効果的であることはヒトラーもよく知っていた。現状を鑑みれば、後世の私たちは過去の歴史から十分学んでいないようだ。
自らの被害者性に気づかせ、社会への反抗心を高め、抗議運動に発展させる、という構図は、筆者がオーストラリアの大学院に在籍していたときに実際目の当たりにしていたことでもあった。博士課程に在籍の間は特定の授業を履修する必要はなく、修士課程用の授業を自由に見学していた。その中のひとつに今でも鮮明に覚えている授業がある。教養学部に属するジェンダー・カルチャー学科で開講される科目のひとつで、私は初回の講義に参加した。
授業が始まると教員はまず学生たちを4、5人のグループに分け、これまでどのように社会に不当に扱われてきたかを話し合うよう指示した。この学科はマイノリティであることに意識的な学生が集まる学科であったため、クラスの学生たちはこの時間を待っていましたと言わんばかりに、それぞれが経験してきた人種差別や性差別について、または社会や権力への憤りを思う存分発散していた。そしてそれを聞く他の学生たちも話し手の苦労の一つ一つに同情を示し、彼らを「迫害する」多数派への怒りを露にした。そこは彼らにとって安全で居心地のよい空間だった。その空間にいれば、皮膚の色や性的嗜好や宗教にかかわらず、外にいると感じずにはいられない劣等感を感じずにすむからであった。そしてその空間を提供する教員は、学生たちが嫌悪感や憤りをためらいなく吐き出すのを見て、満足そうに微笑んでいた。
筆者はというと、この話し合いの意図が汲み取れず、何も発言しないまま他の学生の言葉を聞いていた。そして話し合いが進めば進むほど、居心地が悪くなり、すぐにでも教室から出ていきたい気分に駆られた。その後、その授業を見学するはなく、その教員が開講する他の授業にも一切かかわりを持たなかった。
その時の居心地の悪さの理由を、当時の私はすぐには理解ができずにいた。外国人としてオーストラリアに滞在する私は、マイノリティとしてそのクラスで発言する「資格」を持つ身であった。アジア人女性としての生活は、その場で披露するに値する経験を十分に含んでいた。にもかかわらず、私は彼らの側に安住することを、あの教員の微笑みに救いを求めることを、どうしても受け入れられなかった。
帰国後、少しずつ日本での感覚を思い出すうちに、当時のあの拒否反応の理由がわかってきた。私の心身が無意識に拒否したもの、それは「ためらいもなく不平不満を表に出す遠慮のなさ」だった。日本には遠慮の美学と言えるものがある。それは良く言えば配慮の美学であり、行き過ぎれば我慢の美学になるが、日本人は常に自分の行動や発言が周囲の人々に望ましくない影響を及ぼすことはないか、周りの利益を妨げることがないか、と気を配り、その可能性があれば、自分の行動や欲求を慎もうとする。そして配慮しているという事実はできるだけ相手に気づかれてはいけない。その遠慮や我慢によって湧き出る多少のストレスを、日本人は「しょうがない」という日本語独特の魔法の言葉で流す。事実、オーストラリアにいた私は、不快な態度をとられた場合でも、外国人なのだからしょうがない、日本に帰るまでの辛抱、と考えそれを誰かに話すことに積極的ではなかった。
この遠慮の美学とも言える態度が、調和を第一に考える日本人の思考や行動の基本になっているのではないかと筆者は考えるが、アイデンティティ・ポリティクスが盛んな国では、この日本人的行動は「被害者」的行動に置き換えられるのだろう。不満に感じることがあるなら、それはあなたが被害者であるからで、それは加害者の耳に入るよう声をあげ、糾弾していかなければならない、と。このような風潮が加速すると、被害者的経験の多いものほど正義に近く、発言の権利を得られるという状況が生じる。アメリカにおける「ブラック・ライブズ・マター」で加速した過剰な抗議運動の例を見れば明らかである。
日本的な遠慮の文化には欠点もある。個人の意志より空気が優先され、困窮する人が助けを乞うことを躊躇うという日本の傾向も、この文化によるものだろう。決して完全な良さや正しさがある文化とは言えないが、遠慮という行動規範は日本人の習慣を支え、日本人的共同体を支えるかけがえのない要素である。そしてグローバル・スタンダードからはほど遠い行動規範でもある。日本に居住しながら自国の民族紛争を遠慮なく持ち込むような他国の民に、日本の遠慮の美学が理解されるはずもなく、同時に、他国に自国の民族紛争を持ち込む彼らをこちら側も理解ができない。
今回のLGBT法案はグローバル・スタンダード(外圧をかける側が要求する方向性)への前進を意味するのかもしれないが、日本文化という土壌が決してその基準に合っていないことは明らかである。オーストラリアの授業で感じた違和感、それは遠慮という言葉が含む静けさと、静けさという言葉が含む美への感度が、あの教室の中の他者と共有できないことへの諦めを意味していたのだと思う。グローバル・スタンダードはあまりに騒がしい。この違和感を忘れないことが日本人としてできるささやかな抵抗かもしれない。
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