「罪の女」を石で打てるか

日髙光(会社員・東京支部)

 

 人間は基本的に欲深い生き物です。あらゆる生物に共通の本能に直結するものから全くの奢侈に至るまで、多くの物を求めます。

 しかし大抵の場合、現実は理想からは程遠いもので、実際には我々は多くの事を我慢せざるを得ません。いい年をして幼子の様にあれも欲しいこれも欲しいと駄々を捏ねてはみっともない。己の身の丈に合った生活に、ある程度納得しなければなりません。

 しかし我慢したからと言って欲望が尽きるわけではありません。90年代のテレビドラマ「ひとつ屋根の下」に「心にダムはあるのかい?」なんて有名なセリフがありますが、現実のダムの水が枯渇することは屡々あっても、人の欲望はとめどなく溢れ出し、適時放出しない事には「心のダム」は決壊しかねません。或いは堰き止められた水がそうであるように、どこか適当な場所から漏れ出してしまう事もありましょう。実際そんな風にして漏れ出した欲望があるとして、一体どこへ向かうのか……?

 2023年9月中旬現在、メディアではジャニー喜多川氏の性犯罪に関する問題があれこれと議論されています。芸能人としての未来を質に取った所属タレントに対する性的搾取、一般的な常識からみれば到底許されるものではありません。

 しかし大体の方はご存じかと思いますが、こんな話ははるか昔から知られていた事であります。私が聞き及んでいる限りでも、古くは郷ひろみ氏の時代の話になりますから、もう40年以上前、私が生まれるより前からあったはずの問題であり、その頃すでにゴシップ誌などでは屡々取り上げられていた話です。

 古いからとか今までまかり通っていたからと言って罪が許されるわけではありませんが、一体何故今更になって、半ば公然の秘密であったこんな話を、それも犯人たるジャニー喜多川氏が亡くなってから言い出したのか?

 ジャニー喜多川氏の少し前には、メディアは統一教会の問題で盛り上がっていましたが、これにしたって合同結婚式をはじめとした異様かつ犯罪的な活動が取り上げられたのは随分昔の事であります。彼らほど悪質かどうかはさておくとしても、他にもエホバの証人だの創価学会だのといったいろいろと問題の指摘される宗教団体は存在し、創価学会に至っては統一教会よりはるかに政治に密着しているにもかかわらず、当たり前のように承認されております。

 こうした奇妙な……いわゆるキャンセルカルチャーの流れに乗って特定個人や団体を批判する人々に本当の正義や真実への愛情があるならば、こうした矛盾や不均衡は発生しないのではないかと私は思ってしまうのですが、仮にそうであるとしたら彼等がジャニー氏や統一教会を批判するその本当の理由は何なのか? 一貫した態度に裏付けられる義憤もなければ事物の真偽への関心も薄い彼らに、分かりやすくつるし上げられた者達を声高に批判させるエネルギーの源泉はどこにあるのか。

 おそらくそれこそが、最初に述べた「心のダム」から漏れ出した欲望なのです。

 私の友人達のうち、私が30を過ぎてから知り合った人々はほぼ全員、政治や経済を語る何かしらの集会で出会った人々で、それ故に彼らは世の中に対して思い思いの言葉を発信しております。

 そんな私の友人達に見られる傾向がそれを裏付けておりまして、一体どんな傾向かと言いますと、基本的に幸せな生活をしていて、ある程度社会にも認められている人間ほど節度を持っていて、今回のジャニー氏のような話題に興味を持たず、また持っていたとしてもジャニー氏本人よりはマスコミや大衆の反応に焦点を当て、それ以上多くを語ろうとしません。一方、あまり幸せな環境になく、社会的にも日陰者である人ほど節度を欠き、こうした話題に目ざとく噛み付き、つるし上げられた者達に対して批判の枠を超えた悪罵の限りを執拗に投げつける……という非常に明確で分かりやすい傾向です。

 満たされない欲望がはけ口を求めて彷徨っているところに、マスメディアが作り出した分かりやすい悪役が現れる。彼らは十指の指すところ、十目の見る所の、いかなる弁明も成立しない決定的な悪であり、それ故に彼らに対する批判はどんなに苛烈なものであっても、一応の筋が通ったものとして認められうる。彼らは安心してその大義名分にありったけの欲求不満を載せて、つるし上げられた彼らにたたきつける……というわけです。

 しかし、どんなに大義を語ったとしても、やはり過ぎた行いには性根が見えてしまうものです。

 私は前述の悪罵を執拗に投げつける嘗ての友人を諫めたことがありましたが、彼は結局態度を改めはしませんでした。そしてその態度ゆえに同じような気質の人間以外とは疎遠になってしまっている。一体どうしてこんな事になってしまったのか。

 私が思うに、彼らはもっと自分の欲望に対して素直になるべきなのです。人間の欲望は尽きることがないとは言えども、タカが知れてもいるものです。

 人の欲望など大体は「財産や名誉が欲しい」とか「好みの異性と添い遂げたい」とか、概ねそんな程度です。単純ではありますが、なかなか満たされないものでもあります。私はそれを満たす為の努力を続けろというのではありません、重要なのは素直にそれが欲しいと白状する事なのです。

 いい年をして駄々を捏ねるような真似はみっともないなどと最初は言いましたが、親しい者たちとの語らいや酒場などで、そんな愚痴を吐くくらいの事は許されるはずです。それを敢えてする事が出来ないのは幾らかの倫理観や羞恥心の問題です。しかし、それを超えて自分自身の欲望を素直に認めて向き合う事が出来たなら、つるし上げられた悪人達への態度も幾らか変わるはずです。

 キリスト教の有名な逸話に「罪の女」というのがあります。

 姦通の罪を犯した女がイエス・キリストの前につれてこられる。彼女を連れてきた聖書学者たちは「聖書の記述に従えば、この女を石打ちの刑に処さねばならぬが、あなたはどうするか?」とイエスに問う。

 イエスは答える。「今までに一度も罪を犯した事の無い者だけ、彼女に石を投げなさい。」

 ……マスコミにつるし上げられた悪人達を批判する前に、この話を思い返してみるべきだと思います。現代社会では、あまりに分不相応で過酷な仕打ちを受ける人が多い。その少なからずは単なる司法の判断を超えて、社会的なリンチの様相を呈しております。どこぞの回転寿司で醤油を舐めた程度の少年がどれだけ晒上げられ、痛めつけられたかは記憶に新しい所。牛丼屋の紅生姜を食らいつくす人物しかり。しかし過ぎた悪ふざけの一つや二つ、身に覚えのある人も少なくない筈です。

 そんな手前勝手な感情、或いはそれに身を任せた過去を認めれば、己の立場を利用して強姦染みた真似をするまでは許せずとも、そんな悪人に身を売ってでも明るい未来を得たいと思った者達や、その為に悪を黙認した者たちの幾らかは許せるでしょう。カルト宗教の権力者たちを許すことは出来ずとも、心の闇に付け込まれた哀れな子羊くらい、許せはしないにしても気持ちくらいは汲めるのではないでしょうか? 少なくともそれを許さずに徹底して裁こうという言動の虚しさくらいは感じる筈です。

 他者を許す事を知らず、裁く事ばかりにかまけている人間や社会は、きっと冷たいものに変貌していき、それに相応しい結末を迎えるでしょう。それが神の如く絶対的なものに則っていればまだしも、単なる欲望の捌け口に過ぎないとしたら、一体その裁きは何の為のものなのでしょうか?

 大抵の人は聖人君子にはなれません。心のダムにもいずれ限界が来ます。適時欲望と向き合い、これを認め、許し、吐き出して、心のダムの水を単なる欲望から人に分け与える優しさに変える、そんな営みが求められているように思う今日この頃であります。