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誰のための医療か 医療不信の原点

吉見満雄(86歳・鹿児島県・NPO法人役員)

 

▼11月号特集「『過剰医療』の構造―病院文明のニヒリズム」は私達の日常に関わるとても示唆に富む内容でした。中でも特集論考の一つ、「人間のための医療か、医療のための人間か?」(浜崎洋介氏)は我が身につまされました。それと言うのもこんな困った実例が家内に起きたからです。

▼家内が乳癌の抗がん剤治療も終り予後観察の頃、高熱と失禁状態が続きました。続いて眼がショボショボし始めたので掛り付け医に診て貰ったら大手の眼科専門病院を紹介され受診しました。異常は無いので暫く様子を観ましょう、とのことで点眼薬と四週間後の再診を処方されました。付き添った私が眼科受診前の高熱と失禁状態の話をして「原因は別に有るのでは? もっと総合的な判断が必要では?」と言うと、「それは素人の貴方には判断出来ないことです」とにべもない対応です。更に食い下がると市立総合病院への紹介、それも又眼科への紹介でしたが「うちでは貴院程の実績がありません」と今度は大学病院の眼科に回されました。

▼こうして大学病院眼科でも同じ議論が蒸し返され、三日後にやっと内科での総合診断が受けられました。最初の受診から八日が経ってました。内科での精密検査で三日後に「敗血症」と最終結論が出ましたが、時既に遅く左眼失明となりました。担当医からは「始めから総合判断を受診していれば失明は避けられたかも知れません。乳癌治療後で免疫力の落ちた状態では敗血症の致死率は非常に高い。よくぞ命拾い出来ましたよ」と妙な慰め方をされました。

▼一連の辛い出来事を体験した私には、偶々掛かり付け医の専門領域経由内だけの判断遅れが敗因だったとしか思えません。内科の総合判断に至る迄の説得の何んと困難だったことか。自分の専門領域に固執する医師と医療世界の縄張り意識の強さが今回は身に沁みました。この全体(人間全体)最適よりも部分(患部とそこのデータのみ)最適指向はどの分野でも見られますが、医療分野では一番直して頂きたい悪い傾向です。ましてや医療には素人の患者(及び付添人)の訴えを無視したり否定して表面的な患部、症状とデータだけを判断材料とするのは生身の人間を相手にするには不十分と確信しました。古い権威主義の裏返しのように私には映りました。

▼嘗て人生五十年か精々六十年時代の頃、「無病息災」という言葉が有りました。ところが65歳以上の高齢者率が30%の世界一の高齢者国となった日本ではとても無理な話です。男性の平均寿命をとっくに過ぎた私はどう割り引いても「三病息災」が精一杯です。それで数年前から四週間毎に複数の医者に投薬依頼のため病院通いの最中ですが、困ったことに担当医はパソコン画面のデータを見ながら、「お変わり有りませんか?」と声を発するがこちらの顔も観ません。脈を取るなど体への触診は一切有りません。約一分で終わり医療費合計は一万円位です。現役時代にお世話になった会社の契約病院の医者は先ず私の顔色と話し振りを観察してから脈を取り、服を脱がせ胸と背中を聴診器と二本指で叩きながら触診をして呉れました。その上、瞼を引っくり返して眼底を覗き込み、ベロを出させました。後は排泄の状況を聞いてお終い。これで気持ち的にも安堵感が得られたものです。こうした触診で私の全体状況を観察した上で、データで細部・部分の状況を補足すれば全体最適から部分最適な判断へと到達できましょう。

これぞ高齢化で世界の最先端を走る日本の人間の為の医療と信じます。その先には一人の人間の全体像を観察しながら細部のデータで補強する医療システムとして後に続く高齢化予備国に向けてもリーダーシップを取れる産業モデルともなり得ましょう。