『カッサンドラの日記』40 夫婦別姓は誰のためか?—「日本の強み」の破壊への警鐘

橋本 由美

橋本 由美

夫婦別姓は女性キャリアの問題か 

 

 「夫婦別姓」議論が急に加速したのは、2024年6月の経団連の提言からだろう。法制審議会が提言してから30年経っても成立しないというが、それは、多くの日本人にとって差し迫った関心事ではなかったからではないか。内閣府が令和3年に行ったアンケート調査で、結婚して姓が変わった場合に「働くときに旧姓の通称使用を希望する」者は39.1パーセント、「通称使用をしたいとは思わない」と回答したのが58.7パーセントだった。令和5年に「夫の姓」を選択した夫婦が94.5パーセントだから、結婚後の旧姓の通称を考えるのは、殆どが女性だろう。6割の人が改姓をそれほど不都合とは考えていないのは、専業主婦やパートやアルバイトも存在するし、仕事を持っていても特に改姓によって不利益がある人ばかりではないからだといえる。勿論、生まれながらの姓に愛着がある人もいるが、現在問題になっているのは、一部のキャリア女性の立場にあるようだ

 これらのデータは「男女共同参画局」のホームページに載っているもので、働く女性に関する調査結果である。つまり、改姓という家族制度の問題を、経団連とか男女共同参画という、専ら「女性活躍」というビジネス視点でのみ考えているようだ。家族制度の問題を、何故、経団連が提言するのだろうか。

 経団連の夫婦別姓の要求は、キャリア女性が海外に出張したときのパスポートなどID上のトラブルの問題や、改姓によって結婚前のキャリアが寸断されることなどを理由にしている。経団連のサイトをいくつか覗いてみたが、そこに提示されている「旧姓の通称使用によるトラブルの事例」では、それに該当するような仕事をしているのは男女に拘らず相当なキャリアエリートだろうと思われる。一般のOLやサラリーマンではなく、国際機関で活躍し、企業で頻繁に海外出張をするような、輝かしいキャリアと能力の持ち主である。圧倒的多数の中小企業や国内企業で働く女性や、経理や事務・ウェイトレス・介護職・販売員などには、関係のない問題である。人数にしたらどのくらいの女性が、このようなトラブルに遭遇しているのだろうか。 

 この議論には、既視感がある。トランスジェンダーの問題に似ていないだろうか。非常にレアな存在であるトランスジェンダーの女性のために、トイレ問題や銭湯や控室の問題が生じ、多数の普通の女性たちが「反対」すると「差別主義者」と言われるようなケースである。トランスジェンダーの女性の精神的苦痛を理解することは大切だが、そのために生じる多くの普通の女性たちの精神的苦痛は顧みられない

 

「国際的」とは どういうことか 

 

 この問題だけでなく、何かを「改革」しようとするときに、よく理由として挙げられるのが「国際的」な比較である。特に「欧米各国」と比較して「日本だけが遅れている」という論調が多い。推進派によれば「婚姻時に同姓しか選択できない国は日本だけ」だそうだが、世界中の氏姓制度について、私はよく知らない。ロシアのように子供は男女を問わず父親の名をミドルネームに明記したり、清朝の冠夫姓のように両方の姓をつけたり、タイのように先祖の名を延々連ねた長い名字で誰も憶えられないから、公式の場でもファーストネームを使うとか、姓名の在り方は文化によって多様である。日本人の「姓名」のあり方を、国際的基準(があるとして)に合わせなくてはいけないのだろうか。世界の他の地域の氏姓制度がどうあろうとも、日本人は日本人の家族形態に適した氏姓制度を採用すればよい。

 中国では、現在夫婦別姓である。それでは、中国は社会的に「進んでいる」のだろうか。中国清朝の「冠夫姓」は、夫の姓を「冠」のように妻の姓の上に付けるもので、清朝崩壊後の中華民国時代には法的に明文化されている。香港の元行政長官に「林鄭月娥」という女性がいたが、これは、鄭家の娘の月娥さんが林家の男と結婚して、夫の姓を実家の姓に「被せた」からである。「冠」を廃止したのは毛沢東であって、19世紀のアヘン戦争以降イギリス支配下にあった香港では、清朝の氏姓制度をそのまま使っていた。そのために冠夫姓の伝統が残っていたのだろう。国民党の蔣介石の妻は、通常「宋美鈴」を使っていたが、中華民国の正式な書類には「蔣宋美鈴」という名称が書かれている(遠藤誉)。

 冠夫姓の起源はよくわからないらしいが、『左傳』『禮記』など春秋戦国の頃から地域やケースによってそのような表記が現れるという。中国には同姓不婚という古代からのタブーがあり、妻が「異姓の出身」であることを明記する必要があったのだろう。毛沢東が「冠夫姓」を廃止したとき、夫の姓に統一して「同姓」にするという選択もあったはずだ。妻の姓を「夫と同姓」にしなかったのは、共産党的な男女平等によるものとも言えるが、同時に古代からの「同姓不婚」の根強いタブーを意識して「妻の出身は夫と異なる姓である」ことを強調するためという理由があったのではないだろうか。妻が異姓であることは、中国人にとって常識的で馴染みのある考え方なのだろう。多くの面で、今でも男尊女卑の感覚が残っている中国で、少なくとも西洋的な「人権」という発想から「別姓」になったのではないことだけは確かである。朝鮮半島も、これに倣っている。

 

氏姓制度は家族観の現れである 

 

 日本の家族制度は、鎌倉・室町時代の武士の制度が徐々に体系化されたものだという。「血縁」を重んじる中国の家族形態に比べると、日本の家族は「家」という概念にあるようだ。武家の「家名」、商家の「暖簾」がそれに当たる。血縁がある方が望ましいとはいえ、存続の危機にあっては、血縁のない養子に家名を継がせることや、能力のない跡取り息子ではなく、優秀な番頭や養子に店の暖簾を継がせるケースがあったのは、血縁よりも「家」を存続させることが重要だったからだろう。

 「家」を存続させるということは財産を守ることで、領地や暖簾は、突き詰めれば経済問題である。長子相続は、経済基盤の散逸を避けるためで、姓を継ぐことは権利の継承であると同時に、資産を保全し次世代へ引き渡す責任を負うことでもあった。世界の家族形態を調査考察し、家族制度が社会の上部構造を規定するというエマニュエル・トッドの見解には説得力がある(『我々はどこから来て、今どこにいるのか?—民主主義の野蛮な起源』2022 他)。彼は、日本とドイツの父系制「直系家族」に見られる特徴を、経済基盤としての家業の伝承、即ち技術の伝承にあると考え、家庭内での教育の重要性と伝承の効率性が近代の産業技術社会において適応力を発揮したと見ている。直系家族は、相続する子供の権利が大きく、相対的に女性の権利は低くなる。

 グローバリゼーションが起こったアメリカの家族形態は、核家族である。この形態はアングロサクソンやフランスの一部、北欧に見られるもので、エマニュエル・トッドによれば原始的な家族形態なのだという。古い家族形態が残っているのは、言語分布と同じく、文化の中心部ではなく周縁部であるという。確かに、日本でも古語や昔の「読み」の地名が残るのは、九州や四国に多い。ユーラシアの端に位置する地域に残された「核家族」という家族形態は、「進化した形態」ではなく、「原始的な形態」だということだ。この形態の特徴は、個人主義的で、自由主義的で、女権拡張的であり、イノベーションに向いている。産業革命がイギリスで起こり、テクノロジーがアメリカで発展したことにも関係があるだろう。知的財産権を守る法は民主的な社会で整備される。個人の自由が制限される中国のような権威主義は、それ自体が発想の阻害要因となり、イノベーションは権力側に恣意的に利用されかねない。

 安定性を求める直系家族のドイツや日本は、グローバリゼーションによって、伝統的な直系家族とは異なる個人主義的な価値観との摩擦で機能不全を起こしているのだという。エマニュエル・トッドは、少子化という現象もこのことに関係があるのではないか推測している。こうして見ると、夫婦別姓は、家族という集団よりも「個人」を重視するという点で、アングロサクソン的な価値観なのだといえる

 

帰属集団—家族制度と社会の価値観 

 

 『文藝春秋』2月号で、経団連の十倉会長は、「旧民法で夫婦同姓が決まったのは、1898年。120年程度のこと」なのだと、暗に日本の歴史的伝統ではないということを述べている。しかし、中国で清朝からの長い習慣である冠夫姓が中華民国になって法的に明文化されたのと同じように、日本の夫婦同姓も、それまで長く馴染んできた家族の在り方が「法に明記」されたのが1898年であって、その時点で突然「降って湧いたアイデア」だったわけではない。

 また、十倉氏は、家庭内での夫婦間の家事の分担について言及し、ジェンダー・ギャップを解消するための「一丁目一番地」が選択制夫婦別姓にあると述べている。「姓が違っても家族の愛情に変わりはない」と言うが、それならば、姓が同じでも、家事の分担はできるはずである。同姓であることがジェンダー・ギャップの元凶なのだろうか。

 氏姓制度の問題の本質は、ジェンダーや夫婦間の問題にあるのではなく、日本人が「家族」をどう捉えているのかということにある。経団連の議論には、該当するキャリア女性の問題だけが強調されて、配偶者や子供や親や兄弟姉妹、場合によってはもっと広範な親族まで含んだ「日本人の家族観」についての議論が欠けている。その考察なしに、ジェンダーという一面だけで決定を急ぐのは、何か理由があるのだろうか。

 エマニュエル・トッドは、家族という濃密な継承様態が作り出す集団レベルでの「価値観」には強靭なイナーシャ(慣性力)が働いていて、その形態が消滅した後も、恒久的な持続性があることを認めている。社会制度や社会の支配的イデオロギーが変化しても、このイナーシャは働いているという。現行法の改正が、日本社会から自発的に湧き出て来たものではなく、アイデンティティ・ポリティクスに都合よく合わせるためだとすれば、新たな問題を引き起こし、簡単には失われないイナーシャの働いている社会に自家中毒を起こさせるだろう。

 「姓」の問題など、グローバリズムに関係ないように見えるが、家族制度の問題だと捉えると、そこには「属性」を断ち切って、個人を「アトム化」させるのに都合のいい考えが潜んでいる。夫婦になるのは両人の意思だが、姓名は家族という共同体の問題である。家族を含めて、共同体とは、個人になにがしかの犠牲と忠誠を要求する集団であると、マイケル・リンドは言う。個人個人がそれぞれに無限の自由を与えられたら、社会の摩擦の大きさは収拾不可能な規模になるだろう。権利の主張だけでは、自由は得られない。共同体に属することで生じる最低限の不自由さによって、社会活動の自由が与えられる。集団への帰属は、社会のバランスを保つためにも有効である。

 

「選択制」に内在する危険 

 

 「別姓」を望むのは、女性の3割か4割程度で、そのうち実際に必要性を感じているのはもっと少数だろう。なんとなく「自分の実家の姓を名乗りたい」というような漠然とした理由の女性もいるし、男性の賛成者には、自分が進歩的で女性の味方であることを表明したいだけの「おじさん」もいる。積極的に妻と別姓でありたい男性は、それほど多くないのではないだろうか。それよりも、重大性に気づかずに「自分には関係ないけれど、選択制なのだから、そうしたい人はそうすればいいんじゃない?」という「ものわかりのよさ」で賛成している人が多いようだ。

 いま、夫婦別姓を採用して最も利益を得るのは、既婚のキャリア女性だろうか? 寧ろ、改姓による最大の受益者は「管理者」ではないだろうか。帰属集団から断ち切られ、アトム化された「個体」は、エリートにとって管理しやすい。この点を考察したのがマイケル・リンドで、企業側のエリートを「管理者manager」と呼んでいる。例えば、労働組合などの集団を弱体化させる「移民政策」や「オフショアリング」を推進することで、労働者としての個人はますますアトム化され、自分たちの正当な権利を主張する力を失う。交渉力のなくなった彼らは下層階級に落ち込み、アメリカの産業を弱体化させたと述べている。選択制夫婦別姓の問題には「属性」を断ち切ることで、家族制度や家庭の変質・崩壊に繋がる懸念がある

 現行法は「強制」で、選択制のほうが「好ましい」という意見がある。しかし、「選択制」は「寛容」に見えて、その深層にある「排除」と「拒絶」というネガティブな選択にも利用される。「夫婦同姓」は、他家から嫁いで来た女性(または入り婿)を、差別せずに「自分たちの仲間」として迎え入れることでもある。これを「強制」と受け取るのは、相手側の家族集団に敵対する心理が窺えるような気がする。

 人間の精神の安定は、帰属する集団を持つかどうかが大きい。「家族」は、その最も基本的な集団であり、最終的な精神の拠り所である。属性を断ち切られアトム化した個体は、結局は都合よく「管理」されるだけで、そこでは「姓名」の必要すらなく、「管理番号」さえあればいい。その「管理者」とは、企業であり、寡頭政治のエリートである。——しかし、「姓名」とは文化なのである。

 

自らの利益の最大化を追求するのが「管理者」

 

 十倉氏の後任の経団連会長は、日本生命保険会長の筒井義信氏に決まった。初代の石川一郎会長以来、トヨタ、新日鉄、東レ、日立製作所などの製造業の出身者がその地位に就いていて、今回が初めての金融機関からの選出だという。改姓問題が、金融界にシフトする経団連主導なのは、既に弊害が現れているグローバリズムやDEI(diversity, equity and inclusion)の深みに、「一周遅れ」で嵌っていく日本の現在地を見るようだ。1月11日にメタのザッカーバーグがDEIについての社内規定を後退させると発表したことが報じられた(BBC)。彼は、情報削除の要求がバイデン政権下で次第に無理なものになっていき、例えば、パンデミック中にワクチンの副作用に関する発言を削除するような圧力があったことを明らかにしている。トランプ政権への移行で態度を変えたというよりも、DEIの行き過ぎを認めた発言と捉えた方がいい。アマゾンやマクドナルドもこれに続いている。

 エマニュエル・トッドは、近著『西洋の敗北』の中で、昨年国会で可決された日本の(通称)「LGBT理解増進法」について、この法律は「西洋への帰属を主張し、ロシアや中国の脅威に対するアメリカの保護をより確実にするために制定された」と見抜いている。そして、ウクライナの現実から「アメリカの保護」が実際には「どの程度のものか」が明らかになり、いまのアメリカにおいて「約束を守る」という原則は失われ「裏切りが普通になっている」のに、「東アジア諸国は、(アメリカへの)気遣いからこのような法律を制定させてしまうことで、将来アメリカから『見捨てられる』ことを予め『正当化』してしまったと言える」と、皮肉を込めて述べている。「選択制夫婦別姓」の制定は、その延長である。

 岩井克人氏が理論の誤りを指摘しているフリードマンの「株主主権論・経営者代理人論・利潤最大化論」を推進すれば、日本も破壊的な分断に陥る。ハゲタカのような投資家たちに荒らされてからでは遅い。すでにアメリカの社会がそれを証明し、先進諸国の国政選挙では既存政党が軒並み敗退した。国内に製造業の基盤を「なんとか」保っている日本の現状を、エマニュエル・トッドは「日本の家族制度」の強みと捉えている。どんな家族制度にも完璧なものはないが、技術基盤の維持は日本経済に欠かせない項目である。現在のような不穏な国際情勢下では、国内の生産力の確保は重要不可欠な条件である。農業や製造業は集団の力を要求する。庶民の勤労の歓びは、家族や労働仲間という集団によって得られる。国民をアトム化させる「夫婦別姓」を金融経済の利便性・効率性から提唱することは、アメリカのアイデンティティ・ポリティクスに追随する経済界の「管理者」たちの「自分たちだけの利益」のためではないかと危惧している 

 

『漢民族の「同性不婚」、「冠夫姓」についての一考察』魏世萍著 /文學新鑰 第5期 2007

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?—民主主義の野蛮な起源』上・下 エマニュエル・トッド著 /堀茂樹訳 /文藝春秋 2022 

『新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る』 マイケル・リンド著 /施光恒監訳 寺下滝郎訳 /東洋経済新報社 2022

『西洋の敗北—日本と世界に何が起きるのか』エマニュエル・トッド著 /大野舞訳 /文藝春秋 2024

『資本主義の中で生きるということ』 岩井克人著 /筑摩書房 2024

「経団連会長の結論・富裕層はもっと税金を払うべし」十倉雅和著 『文藝春秋』2025年2月号

「Meta and Amazon axe diversity initiatives joining US corporate rollback」BBC News 2025,1,11 配信

 

 


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