そもそもイランは悪い国なのか?──イスラエル・イラン戦争の展開とその文明史的背景(前編)

中田考

中田考

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1.イスラエル・イラン戦争を語る前に知っておきたいこと

 

 本稿の目的はイスラエル・イラン戦争の短期・中期的な原因の分析と今後の展開の見通しを与えることです。

 有史以来、無数の帝国、王朝、民族、宗教の興亡を経験してきた肥沃な三角地帯においてたかだか百年余りの歴史しかない領域国民主権国家を固定したアクターとして語ることは現実的ではありません。かといって、現在進行中の出来事を三千年前の歴史に遡って分析するのもまた非現実的です。

肥沃な三角地帯 出典:Nafsadh – Map of fertile cresent.png

 イスラエル・イラン戦争の直接のアクターは1948年建国のイスラエル国と1979年建国のイラン・イスラーム共和国であり、直接の原因はイラン・イスラーム革命(1979年)です。革命以前にはアメリカの軍事・財政支援によって軍事費ベースで世界第4位とも言われる軍事大国・警察国家、強権的絶対王制国家に仕立て上げられたパフレヴィー朝イランは、中東における欧米の植民地の橋頭保イスラエルを守って[1]冷戦下で中東諸国が東側社会主義陣営に入るのを阻む「湾岸の憲兵」の役割を担っていました。[2]ところがイスラーム革命によってそれが180度反転し「アメリカに死を。イスラエルに死を」をスローガンとする反米・反イスラエル国家になってしまったのです。

イスラーム革命の周年記念 出典:Mostafameraji

 と、聞くと、国交もなく公然とイスラエル打倒を叫ぶイランにイスラエルが戦争を仕掛けるのも不思議はない、と思うかもしれません。しかし話はそんなに単純ではありません。それではなぜ同じく革命以来「大悪魔」と罵り、公然と打倒を叫んでいるばかりでなく、イスラーム革命を支持する学生がテヘランのアメリカ大使館に侵入し人質をとって444日にわたって占拠する事件(1979年11月4日-1981年1月20日)が起こったアメリカとイランが戦争になっていないのか説明できません。[3]またイスラエルにしても、なぜ革命以来45年経った今になって戦争を仕掛けたのかも説明できません。

 しかしそれ以前にまず、CIAの暗躍によりモサッデグ政権を崩壊させその後残虐なムハンマド・レザー・シャー(在位:1941-1979年)の独裁帝政を支援したアメリカが大悪魔と呼ばれ「アメリカに死」をとのスローガンが叫ばれるのは理解できますが、国境を接しているわけでもなく、他の西側欧米諸国以上にシャーの独裁を支援していたわけでもないイスラエルがアメリカと並べて特に名指しで「イスラエルに死を」と叫んで敵対視されるのはそもそもなぜなのか、が問われなければなりません。

 

 それが理解できないと、ヨーロッパではなくイスラエルだけが敵視されるのは、「反ユダヤ主義」のせいである、といった安易なプロパガンダに知らず知らずにうちに乗せられてしまうことになってしまいます。

 最初に述べた通り、現在のイスラエル・イラン戦争の直接の原因は1979年のイラン・イスラーム革命です。しかしそれは1979年以前の人類文明史の背景知識を欠いて現在のイスラエル・イラン戦争の原因と意味を理解することができることを意味しません。

 そこで次節以降ではイスラエルとイランについての一般の読者に知られていない二つのエピソードを紹介します。しかしあらかじめ断っておきますが、最初にこの二つのエピソードを紹介するのは、そこからイスラエル・イラン戦争の意味を読み説いて欲しい、ということではありません。そうではなく逆に、読者諸賢がこれから目にすることになるであろうイスラエル・イラン戦争についての無数のしたり顔での説明を聞いて安易に納得してしまうことがないようにとの注意喚起が目的なのです。

 

 

2.イランのユダヤ人とイスラエル

 

 最初に小さなライフ・ヒストリーを紹介しましょう。といっても、私が直接聞き取り調査をしたわけではありません。私が同志社大学神学部大学院で教えた最後の教え子辻圭秋君が、イスラエルでのインタビューをまとめた名著『そして人生は続く ー あるペルシャ系ユダヤ人の半生』(風響社2017年)からの抜き書きです。

 ダリア・パジャンドさんは1963年、イランの古都エスファハーンにユダヤ人として生まれました。15歳の時イラン革命を経験。1986年、23歳の時にイラン・イラク戦争が勃発、夫と生まれたばかりの息子とともにイスラエルへ移住しました。
 そんなイランの田舎育ちのダリアさんがイスラエルという国があることを初めて知ったのは、1972年のミュンヘン五輪の黒い九月事件(パレスチナ過激派によるイスラエル選手団拉致事件)のニュースを聞いた時でした。また6百万のユダヤ人たちが殺害されたと言われる「ホロコースト(民族浄化)」があったことを知ったのはイスラエルに来てからで、2005年にイランのアフマディネジャド大統領(当時)がホロコーストを否定する発言をした際に、ダリアさんは当時まだイランに住んでいた彼女の姉から「ホロコーストって何?」と尋ねられたと言います。

『そして人生は続く あるベルシャ系ユダヤ人の半生』(辻圭秋,風響社,2017)

 そんな時代遅れのイランの田舎生まれのユダヤ人の例外的な話をして何の意味があるのか?と思うかもしれません。しかしそうではありません。そもそもユダヤ人とは何か、を問い始めるときりがありませんので、聖書の「ヤコブ(イスラエル)の末裔」だということにしておきますが、ユダヤ人の3,500年以上の歴史の中では、まがりなりにもイスラエルという「領域主権国民国家」らしきものがあったのは、サウル王がイスラエル王国を立ててから分裂した南のユダ王国が前586年に新バビロニアによって滅ぼされるまでの間と、1948年にイスラエル国が建国されてからのあわせて500年あまりしかありません。ユダヤ人がイスラエルという領域に支配民族として集住していた期間も、ユダヤ人の歴史の中では、僅かな例外でしかなく、ましてや「ホロコースト(民族浄化)」などという経験は「ナショナリズム」という野蛮な部族主義が蔓延した近代ヨーロッパでのみ生じた病理的な例外中の例外でしかありません。

 ユダヤ人たちは歴史の大半をディアスポラ(離散:galut)民として多民族国家の中の一民族として暮らしてきました。トーラーの聖句「寄留者(ger)を虐待してはならない。あなたたちはエジプト人たちの地で寄留者だったからである」(「出エジプト記」22章20節)は寄留民、異邦人の存在を前提とする多民族国家の倫理を示しています。

 エジプトにおける寄留民としてのイスラエルの民の暮しの実態は資料的な限界から歴史的実証が困難で伝説の域をでません。ユダヤ人のディアスポラ、寄留民の歴史的な原型が実はイラン、つまりアケメネス朝ペルシャ帝国におけるユダヤ人なのです

 

 

3.異教徒なのにメシアと呼ばれたイラン皇帝キュロス2世

 

 イエス・キリストのキリストはギリシャ語のChristósに由来しますが、Christósとは「油を塗られ(て王として聖別され)た者」であり、ヘブライ語のメシアの音写です(新約聖書「ヨハネによる福音書」1章41節、 4章25参照)。ところが、旧約聖書の中でサウル王やダビデたちイスラエルの王以外にも「メシア(mashiach)」と呼ばれている者がいます。それがアケメネス朝ペルシャ帝国の建国者のキュロス2世なのです(旧約聖書「イザヤ書」45章1節参照)。

 紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャ帝国の勃興とバビロン捕囚の終焉は、ユダヤ民族とその宗教に深い影響を及ぼしました。キュロス2世(紀元前529年没)はバビロンで捕囚になっていたユダヤ人の祭司や貴族たちを解放し、エルサレムに戻り神殿を再建し、自治を享受することを許したのです。
 ユダヤ民族でもないキュロス二世が「メシア」と呼ばれるのは、彼がユダヤ人を捕囚から解放しエルサレムに帰還し神殿を再建しトーラー(律法)に従って生きる宗教共同体を樹立することを許したからです。そしてキュロス2世の多民族、多宗教共同体の自治を認める多元社会政策の下で、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちと共にエルサレムに帰還した祭司で書記官であったエズラが失われていたトーラー(モーセ五書)を再発見したと称して、トーラーを編集したのです(旧約聖書「エズラ記」参照)。キュロスの帝国でユダヤ民族が自治権を得るためには、ユダヤ民族が法を持ち法に基づいて裁く機構が必要であり、そのためにユダヤ人共同体がそれに従って生き裁かれる「実定法」として「トーラー(律法)」を編集したのがエズラだったというわけです。

キュロス2世のレリーフ

 

4.社会規範としてのトーラー(律法)

 

 キュロス2世の宗教自治政策の下で形成された律法(トーラー)は、単なる内面的信仰体系ではなく、ユダヤ人共同体における裁判・行政・儀礼・通婚等の秩序を規定する社会規範でした。この意味において、エズラによって整備された律法(トーラー)は、単に朗読される経文ではなく、「公共的に布告された法(publicly exposed law)」として共同体成員に明示されるべき法規範でした。旧約聖書「ネヘミヤ記」8章に見られる民衆の前での朗読とそれに対する民衆の反応は、律法が象徴的支配装置であることを示す典型であり、律法の「公開性」はその正統性と権威の源泉となったのでした。

 キュロス2世の宗教自治政策が、エズラによる「申命記資料」を中心としたヤハウェスト資料、エロヒスト資料、祭司資料の整理、体系化による「実定法」としての「律法(トーラー)」への整備を促し、共同体の司法と統治の基礎となったのです。こうして「律法トーラー」は、宗教的典拠であると同時に、ユダヤ人ディアスポラにおける共同体自治の柱となり、現代までその影響を及ぼしています。つまりキュロス2世が「メシア」とされたことは、単に政治的恩人としてだけでなく、ユダヤ教の再興を神の摂理と結びつける神学的視点の表れでもあったのです。[4]

 

 

5.イランに残ったユダヤ人

 

 すべてのユダヤ人がキュロス2世の解放令によってエルサレムに帰還(aliyah)したわけではありませんでした。ユダヤ人の多くはペルシャ帝国内に残留し、「バビロニア・ユダヤ人」「イラン系ユダヤ人」と呼ばれてその後も生き続けたのです。イランのエスファハーンやシーラーズには、20世紀まで多くのユダヤ人共同体が存在していました。
 先ほど述べたダリアさんのような存在は、イランで2,500年にわたってトーラーを守って生き続けてきたそうしたディアスポラのユダヤ人たちの姿なのです。つまり彼らイランのユダヤ人たちこそが、キリスト教ヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナジーム)のディアスポラの中でも近代西欧キリスト教社会に同化し世俗化したシオニストたちのヘゲモニーによって作られた世俗国家イスラエルのユダヤ人たちよりも遥かに長い歴史を有する正統な寄留民(ger)としての生き方を守ってきたユダヤ人共同体なのです

 

 

6.「ユダヤ教に死を」とは決して言わないイランの論理

 

 それはイランでイスラーム革命が起きて、イラン・イスラーム共和国が成立してからも変わりません。現在においてもイランのユダヤ人コミュニティは一定の自治を保ちつつ教育機関やシナゴーグを維持しています。テヘランには依然として数千人規模のユダヤ人が居住しており、国会にもユダヤ人枠の議員が存在しています。だからこそイラン・イスラーム革命のスローガンは「イスラエルに死を」であって「ユダヤ教に死を」ではないのです。

 今日の姿のユダヤ教とユダヤ教徒共同体があるのも、イランのキュロス2世が存在したからです。キュロス2世が「メシア(神から聖別されたユダヤ民族の王)」であったように、イスラエルのユダヤ人たちが正しくユダヤ教徒として生きたいと望むなら、むしろトーラーの教えに背く現行の世俗国家イスラエル国にではなく、ユダヤ教徒が正しく寄留民として律法(トーラー)に従って生きる自治を認めているイラン・イスラーム共和国の最高指導者をキュロス2世のように「メシア」と思って、イラン・イスラーム体制にこそ服属すべきである、というのが、イランがユダヤ教徒を保護しながらイスラエルの打倒を訴える理路なのです。

 

 

7.イランを支持しイスラエルの存在を否定するユダヤ教超正統派

 

 2023年9月にはアメリカで開催された国連総会に参加したイランのライースィ大統領はユダヤ教超正統派の「ネトゥレイ・カルタ(都市の守護者:聖都エルサレムをトーラーによって護る者)」のメンバーと会見しています。そこでネトゥレイ・カルタはイラン・イスラーム共和国が建国以来ユダヤ人コミュニティを庇護してきたことを確認し、パレスチナを不当に占領するシオニズムがユダヤ教の教えに反していると明言するイランの立場への支持を表明しています。[5]

 

 

8.イスラエルのイラン人

 

 2節で、イランからのイスラエル移民のダリアさんの話をしましたが、人口2千万人弱のイスラエルで、イラン(ペルシャ)系は20~25万人とみなされています。

 イラン系ユダヤ人の中にはイスラエル社会の中枢に進出している者もいます。たとえば、モシェ・カツァヴはイランのヤズド出身で1951年に家族と共にイスラエルへ移住し第8代イスラエル大統領(2000–2007)を務めています。またシャウル・モファズはイランのテヘラン出身で1957年にイスラエルに移住し、イスラエル国防軍(IDF)で参謀総長(1998–2002)を務め、その後国防大臣、副首相などを歴任しています。これらの人物はイラン系ユダヤ人のディアスポラ的伝統と現代国家における同化・貢献の象徴でもあります。

 イラン系イスラエル人の中には、ユダヤ人の入植地建設に明白に反対してパレスチナ人との和平を訴えたエビ・ナタン(2008年没)のような平和活動家もいました。彼は1927年にイランのアバダンで生まれイラン軍の兵士でしたが1948年の第一次中東戦争に義勇兵としてイスラエル軍に参加し、そのままイスラエルに移住しました。1973年にジョン・レノンの支援を得てラジオ局「平和の声」を立ち上げ「平和の船」を購入して平和活動を行いましたが、1993年にパレスチナとの和平交渉がまとまった(オセロ平和合意)のを機に「平和の声」を解散しました。[6](続)

エビ・ナタン

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[1] パーレヴィー朝イランとイスラエルの関係については、Eitay Mack, “The unwritten history of Israel’s alliance with the Shah’s dictatorship”, 2019/6/24, +972 Magazine参照。

[2] 後のアジア・アフリカ諸国の資源ナショナリズムの先駆となったアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)の国有化を断行したモハンマド・モサッデグ首相を1953年にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部(MI6)が共謀(2013年CIAが正式に関与を認めた文書を公開)してクーデターで倒し欧米の石油利権を暴力的に確保しました。その結果アメリカの石油資本がイランの石油開発に参入することになりました。

 冷戦時代、西側自由民主主義陣営において中東の要として機能したのは、地理的にヨーロッパの一部でもありムスリム諸国の中で唯一のNATO加盟国でもあるトルコ、サウジアラビア、イスラエル、そしてイランでした。この中でイランは、特にパフラヴィー朝下のシャー政権期において、「(石油生産地帯であるペルシャ/アラブ湾岸の憲兵」と呼ばれていました。これはアメリカ合衆国のニクソン・ドクトリンに基づき、地域の安全保障をイランとサウジアラビアに分担させる戦略の一環であり、イランがペルシャ湾岸の安定維持において軍事的・経済的に枢軸の役割を果たしていたことを示していました。つまりイランの国内的安定とアメリカとの緊密な軍事協力は、イスラエルと並ぶ地域の反共防波堤としての機能を担っていたということです。詳しくは、斎藤祐介 「米国のペルシア湾政策、1969年-1976年(I) -「二本柱」政策の諸側面」『敬和学園大学 研究紀要』 第2号(1993年2月)93-115頁、斎藤祐介 「米国のペルシア湾政策、1969年-1976年(Ⅱ) -「二本柱」政策の諸側面」『敬和学園大学 研究紀要』 第2号(1993年2月)93-115頁『敬和学園大学 研究紀要』 第4号(1995年2月)89-105頁参照。

 そしてこの冷戦構造の中でのイランの役割は、ユダヤ人ディアスポラを抱える国家としての性格にも影響を与え、後のイスラエルとの接近や、イラン系ユダヤ人の移住政策とも密接に関連していたのでした。

[3] 当時のジミー・カーター大統領(在位:1979-1981年)は、1980年4月に人質解放のためにデルタフォースを投入しましたがイラン領内でヘリコプターの事故で失敗し撤収することになったが(イーグルクロー作戦)戦争には発展しなかった。

[4] 律法(トーラー)編纂におけるキュロス2世の宗教政策、エズラの役割と、その後のユダヤ人共同体形成に関する影響については、聖書学の膨大な研究の蓄積がありますので、とても本稿で紹介できるものではなく、またそれは本稿の目的でもありません。興味がある読者諸賢は手始めに、樋口進「預言書の正典化の諸問題」『関西学院大学キリスト教と文化研究』第7号(2006年)1-23頁をお読みになってください。

[5] Cf., “Members of ultra-Orthodox, anti-Zionist sect meet with Iran’s Raisi on UNGA sidelines”, 2023/09/21,i24NEWS

[6] 宮田律「イランとイスラエルはかつて友好国だった ―勇気をもって平和を訴えたイラン系イスラエル人活動家」2023年12月29日『Note』参照。

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コメント

  1. 奥野庸平 より:

    日本のメディアやコメンテータと称する人達が流布するイラン悪魔論には閉口します。
    私の知る亡命イラン人は表向き気のいい絨毯屋さんですが、実はパーレビ系のインテリです。彼から田中先生の論説にある話を聞いていましたのでこの論考には大変合点する次第です。

    折しも米国はバンカーバスタによるイラン地下核施設への攻撃を行いました。同時に巡航ミサイルにより革命防衛隊の軍事施設を選択的に攻撃しました。直感的に核施設への攻撃はトランプ流のプロレス、しかし革命防衛隊には本気で敵対するという考え抜いた攻撃だと思いました。
    そしてB2爆撃機のコースはディエゴガルシア経由の西からでは無く、グアム経由の東から行いました。支那や北鮮への示威も忘れてはいません。

    米国はイランのレジュームチェンジにより開明的政権を倒し、パーレビ傀儡政権もイスラム革命により倒れ、イラクをけしかけ多大な人的損害を与え、オバマが行った核開発の先延ばしにも失敗しました。
    中東外交に失敗し続ける米国ですが、この先イランはどうするのか気になります。

    先程の亡命イラン人が言った言葉に「アラブは遊牧民が欧米に国を作って貰った連中、イランはササン朝ペルシャ以来の国民国家だよ。」

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