【藤原昌樹】「反日教育」に利用される「平和劇」 ―教育現場におけるプロパガンダから子ども達を守れ―

藤原昌樹

藤原昌樹

赤ちゃんを銃剣で突き刺す日本兵-日教組「教研集会」で報告された「平和劇」

 

 「日教組」(日本教職員組合)が一年に一度開催している教育研究全国集会(以下、「教研集会」)が一月に開催され、その中で赤ちゃんを銃剣で突き刺す日本兵を中学生が演じる「平和劇」が授業実践例として報告されたと『産経新聞』が報じています(注1)

 「教研集会」で報告された「平和劇」は、昭和20年の沖縄戦を舞台とし、米軍の攻撃から逃れるために住民が避難する自然壕「ガマ」にやって来た2人の日本兵が、泣き止まない赤ちゃんと母親にガマを出るように命じる場面があり、その命令に抵抗する住民を殺害し、泣き止まない赤ちゃんを銃剣で刺し殺し、さらには母親も刀で切り付けて殺してしまう-というストーリーです。昨年、福岡県内の市立中学校で生徒会が中心となり、学校の文化祭のほか、地域住民らが訪れる学校外でのイベントでも上演されました。

 この「平和劇」について報告した中学教員は、その残酷な描写に客席からは「やめろ」などと悲鳴が上がったことなどを伝える一方で、「会場は大きな拍手に包まれ、感動の渦が巻き起こった」と自画自賛しています。そして、『産経新聞』の取材に対して「(残虐な日本兵を演じた生徒は)最初は『むごい。俺、無理』と言っていたが、練習を重ねるにつれて『俺、やるわ』『日本兵が来て赤ちゃんが泣いて恐怖に満ちていく様子などを少しでも表現できるようにしたい』と変わっていった」「確かに残酷な描写で目をつむる生徒もいたが、平和学習をする上で本当の残酷さから目を背けることはできないのではないか」と語っています。

 『産経新聞』は、この「平和劇」について社説でも取り上げ、「(日教組の)旧態依然の反日ぶりに驚く」「沖縄戦などを舞台にした『平和劇』は、体験的に反戦思想を刷り込む日教組の『お家芸』である」「日本軍を貶める偏向指導だ」と指摘し、「『平和』に名を借り、教師の反日思想を植え付ける活動は教育とはいえない。生徒の歴史を見る目を歪めないか心配だ」「生徒が残虐なシーンを演じることが、平和の大切さを学ぶことにつながるのか。むしろ日本を憎むようになり、歴史を多様な角度から見て考える意欲を奪いかねない」と厳しく非難しています。

 

「平和劇」を「記憶」を継承する有効な手段として活用できているのか

 

 沖縄における極端な反戦平和イデオロギーに基づく平和教育について批判的に捉えているということもあり、私自身は『産経新聞』の「平和劇」に対する批判にほぼ全面的に賛同するものでありますが、その一方で、「教研集会」において「戦後80年が過ぎ、遠ざかる戦禍の記憶について『教員自身が学ぶ必要がある』との意見が多く出た」ということや「沖縄戦」を「平和劇」の題材として取り上げることについても肯定的に評価しています。

 以前に『沖縄の生活史』を紹介した記事沖縄の「本土復帰記念日」を取り上げた拙稿などで、近年、沖縄戦の語り部として活動されてきた方々が鬼籍に入られたとのニュースが相次いでおり、沖縄戦の「記憶」の継承が課題となっていることを論じました。「沖縄の高校生の2割ほどしか復帰を知らない」という現状を鑑みるに、沖縄戦のみならず、その後に続く米軍統治下時代の沖縄、「沖縄の日本復帰」が実現するに至るまでの経緯についても「体験していない世代の人間が如何にして語り継ぐのか」という「記憶」の継承が課題として浮上してくるのが時間の問題であるどころか、既に危機的な状況に陥ってしまっています(注2)

 そんな現状において、「平和劇」が「記憶」の継承の有効な手段となり得ると期待されていることから、沖縄のみならず、全国の教育現場において「平和劇」を積極的に取り入れているのだと推察します。

 しかしながら、「教研集会」で報告された福岡の実践例がそうであるように、「平和劇」が「戦場における悲劇」を「『加害者である残虐な日本兵』と『被害者である住民』」という極めて単純で判りやすい構図で描くことにとどまり、「何故、日本兵がそのような残虐な振る舞いをしてしまったのか」などといった問いに踏み込もうとしないのであれば、「日本軍を貶める偏向指導だ」「生徒が残虐なシーンを演じることが…むしろ日本を憎むようになり、歴史を多様な角度から見て考える意欲を奪いかねない」などといった厳しい評価を下されることは避けられないことであるように思えます。

 

「平和劇」に期待される役割-「戦場におけるアポリア」に踏み込むことができるか

 

 「沖縄戦の歴史にどう向き合うのか」ということについて、陸自第15旅団のホームページに牛島満司令官の「辞世の句」が掲載されていることをめぐる騒動西田昌司参議院議員のひめゆり展示「歴史書き換え」発言を取り上げた拙稿で、次のように論じました(注3)

 我が国の戦争の歴史に翻弄された沖縄戦の当事者たちの「当事者性」について考慮することがない批判的な検証は「過去を客観的に見る」ということではなく、「先人達を断罪する傲慢な行為」となってしまうように思えます。

 沖縄戦を語る際に、壕の中で日本兵が住民に対して卑怯で酷い振る舞いをしたという事例が取り上げられることが少なくありません。・・・(そこで語られている)日本兵の振る舞いが酷く醜い行為であることは否定すべくもありませんが、戦場という極限状態の下で酷い振る舞いをしてしまった日本兵達を断罪することに躊躇いがあります。

 沖縄戦を戦った兵士も一人の人間であり、敵にも味方にもいろいろな性格の人がいます。戦時ではない平穏な日常においては温厚で誠実な人物が、戦場の極限状態の下で極度の疲労や飢えに襲われ、死の恐怖に囚われ、卑怯で残酷な振る舞いをしてしまったとしても何ら不思議なことではありません。

 「自分達を助けてくれた日本兵」「住民を酷い目にあわせた日本兵」「銃弾や火炎放射を浴びせた米兵」「ガマを出た自分達を手厚く保護してくれた米兵」・・・その「証言」の一つ一つが、沖縄戦を生き延びた住民にとっての「真実」なのです。

 「平和劇」という手法が、「何故、温厚で誠実な人物が、戦場では卑怯で残酷な振る舞いをしてしまったのか」などといった「戦場におけるアポリア」にまで踏み込み、「当事者性」に配慮した形で描くことができる可能性を秘めているものと思慮します。しかし、それにもかかわらず、反戦平和活動家として振る舞う教員たちによって、「過去を客観的に見る」ということではなく、先人達を断罪し、子ども達に「反日・反戦思想」を刷り込むプロパガンダの道具として利用されてしまっているのではないかとの疑念を拭うことができません。

 

教員たちによる理不尽な「抗議活動」や「反日教育」を放置してはならない

 

 つい先日も、1月17日・18日に沖縄市で開催された「日米交流合同コンサート」(主催:防衛省沖縄防衛局、後援:沖縄市)をめぐって「沖教組」など教職員とその退職者でつくる4団体が1月9日に会見を開き、防衛相や沖縄防衛局長、沖縄県の教育長宛てに中止を求める申し入れ書を郵送することを明らかにし、その他、市民団体「沖縄県平和委員会」も13日付で沖縄防衛局長と沖縄市長宛てに抗議文を送付したと報じられました(注4)

 幸いなことに、主催者の沖縄防衛局が理不尽な中止要請に屈することなく、「日米交流合同コンサート」は予定通りに実施されましたが、「沖教組」や「日教組」がこうした政治的偏向を持っていることの証左であることに変わりはありません。

 当然のことながら、我が国の教育に携わる教員の全てが偏向したイデオロギーに毒されている訳ではなく、活動家と化してしまっているのはごく一部であり、決して少なくない数の教員が、教育現場で起こる日々の諸問題に対峙し、子ども達の教育のために真摯に尽力していることを疑うものではありません。

 そして、私たちは、もはや本来のあるべき姿からかけ離れてしまい、活動家の集団と化してしまっている「沖教組」や「日教組」などといった組織による理不尽な抗議活動や反日教育に対して、「ごく少数の非常識な連中が騒いでいるだけで、社会的な影響力を持ち得ない」と看做して「無視しておけばよい」と放置してしまいがちです。

 しかしながら、前述したように、沖縄戦(のみならず、先の戦争)の「記憶」の継承が危機的な状況に陥ってしまっており、「平和劇」がその有効な手段となり得ると期待されている一方で、その期待とは裏腹に、「平和劇」が沖縄戦の「記憶」の継承に資するというよりも、教育現場において子ども達に「反日思想」を植え付けるプロパガンダの道具として利用されてしまっているという実態は否定できません。

 また、たとえ全体の中のごく僅かな割合であったとしても、「沖教組」や「日教組」が主導する抗議活動やプロパガンダの影響は無視できるほど小さいという訳でもないのです。

 沖縄の学校では、「沖縄戦」を舞台とする「平和劇」を子ども達に演じさせることが常態化しており、沖縄県民もその事実に慣れ切ってしまっているのではないかと推察します。

 『産経新聞』の強い調子での批判がなければ、私自身も「他の都道府県でも、沖縄と同様に酷い内容の『平和劇』が行われているのだ」と思うだけで、さほど強い憤りを感ずることなく、「無視しておけばよい」とスルーしてしまっていたかもしれません。

 教育現場における日常的・継続的なプロパガンダから子ども達を守るためにも、私たちは理不尽な抗議活動や「反日教育」を無視して放置するのではなく、逐一非難していかなければならないのではないでしょうか。

 

(注1) 日教組 第75次教育研究全国集会を開催しました – 日本教職員組合JTU2026年1月25日

(注2) 【藤原昌樹】如何にして「記憶」を継承するのか―『沖縄の生活史』を読む | 表現者クライテリオン|表現者クライテリオン

(注3) 【藤原昌樹】「辞世の句」ホームページ掲載を巡るドタバタ劇─悲劇を政治利用する平和主義者たち | 表現者クライテリオン|表現者クライテリオン

(注4) 【令和7年度日米交流合同コンサート】日米交流事業|広報|沖縄防衛局

(藤原昌樹)


 

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