イランが敗けない最大の理由
中田 考
前編(本誌2026年5月号に掲載)では、2026年のイラン戦争がもたらす世界的な地経学危機と、周到に用意された要人の暗殺にも耐えうるイランの軍事・組織的な強靭さについて論じた。
しかし、イランが半世紀にわたり孤立に耐え抜く底力は、こうしたハード面だけでは説明しきれない。後編となる本稿では、その真の源泉である独自の「ナショナリズム」に焦点を当てる。西欧近代型の枠組みを超え、国境を越えた宗教的同胞性によって統合される「イラン・イスラーム国民帝国」の実態と歴史的ダイナミズムを解き明かしていく。
前編は、4月16日発売の最新号に掲載しています。
在イラン日本国大使館公使を務めた研究者若林啓史は、日本のイラン研究者が「イランの知識層や改革派など外国人との接触を憚らない種類に交流が偏って」いるため、「イランが大衆に根を下ろしたボトムアップ体制」であることを理解しておらず、「要人が次々と殺害されても下から沸き上がるように傷口がふさがる強靱性」を説明できず、「限定されたサンプルから吹き込まれるイラン観を日々拡散」していると批判している[1]。
前節で述べたような長期戦略がイラン・イスラーム共和国体制の強靭性(resilience)を支えているとの『アルジャズィーラ』等の分析に異論はない。しかし、軍事戦略だけでは革命以来半世紀近くにわたって国際的な孤立の中で内外の敵から体制を維持することはできない。
イランの強靭さを支えているのは、「法学者の統帥(Velayat-e Faqih)」を掲げ、非集権的モザイク防衛システムを有する「イラン・イスラーム共和国」という二重権力国家・統治体制というよりも、「イランという国」自体が「大衆に根を下ろしたボトムアップ体制」であること、つまり「ベタな」言い方をするならば「愛国心」や「国民意識」、「ナショナリズム」といった類のものなのである。
日本語の言語空間では、ポストコロニアル後発人工国家のウクライナや台湾に関しては、西欧帝国主義の手先となって美化された虚構のナショナリズムを称揚して戦争に駆り立てようとする認知戦が展開されている。一方イランに関しては、侵略者であるトランプやネタニヤフのナラティブを補強するものが「民衆の声」として取り上げられる一方で、イランの体制側の声は民衆を弾圧する抑圧体制のプロパガンダとして扱われている。これは前述の若林が批判している通りであり、結果としてイランのナショナリズムは見えにくくなっている。
筆者の体感でもイラン人は極めて「愛国的」だが、そのことの意味を正しく理解するには、そもそも「イラン人」とは何なのかを問わなければならない。しかし、その問いに直接向かう前に、本節では分析の視座として、歴史学者山室信一(京都大学名誉教授)の「国民帝国」の概念を参照しよう[2]。
山室は「日本を含めて多くの帝国が形成されていく過程が国民国家(台湾での国族国家)を形成していく過程とほぼパラレルであったという事実に着目し、そこにおける国民国家形成と帝国形成とがいかなる相互規定性をもっていたかを考察しようという企図」から出発した。そして、「主権国家間の 『国際関係』として世界秩序を捉えてきた従来の見方に対して、主権国家のみならず植民地や従属国などの範域を含む全ての統治体制がトータルに創り出すグローバル秩序として近代世界体系は成り立っていたという見方を対置する」という視座から、「国民帝国」という分析概念を提唱した。日本をモデルとする山室の「国民帝国」概念は以下の5つのテーゼによって定義される。
①国民帝国は世界帝国と国民国家の拡張でもありつつ各々の否定として現れるという矛盾と双面性をもつ。②その形成・推進基盤が私的経営体からナショナルなものに転化していった。 ③世界体系としては“多数の帝国が同時性をもって争いつつ手を結ぶ”という競存体制として現れる。④本国と支配地域(植民地)とが格差原理と統合原理に基づく異法域結合として存在する。⑤国民帝国システムから被支配地域が独立するにあたっては国民国家という形式を採らざるをえなかった[3]。
サファヴィー朝イラン(1501年〜1736年)は前近代帝国であったが、サファヴィー朝滅亡後のイランは弱体化しており、パフラヴィー朝(1925年〜1979年)によって国民帝国に変貌した。パフラヴィ―朝の初代国王レザー・シャーは1930年代、ナチス・ドイツに接近し、アヴェスター語の airyāna(アーリア人の土地)に由来しサーサーン朝(3〜7世紀)以来、アーリア人の土地の自称として使われてきた「イラン(Ērān)」を初めて正式な国号(dawlat‑e šāhanšāhī‑ye Īrān:イラン帝国)とした。「イラン人=アーリア人」と再定義し、ペルシア語民族による、中央集権的で、均質な「国民国家」建設を目指したのである。
19世紀のイランは、南下政策を進めるロシア帝国と、インド防衛を最優先とする大英帝国という二つの“近代国民帝国”の衝突点となり、両国はイランを緩衝国(buffer state)として分割管理した。1907年の英露協商はその構造を制度化し、北部をロシア勢力圏、南東部を英国勢力圏、中部を中立地帯とする異法域的支配を固定化した。これは山室の第1テーゼが示す「国民帝国の拡張」と、第2テーゼの「私企業利権(石油・鉄道)の国家的戦略化」が結びついた典型であり、両帝国が競合しつつ協調する「競存」(第3テーゼ)を体現していた。
1925年にパフラヴィー朝が成立すると、レザー・シャーは中央集権化と軍制改革を進め、外部帝国の干渉を排除しようとした。しかし第二次世界大戦によりイランは再び英ソ両国の戦略的要衝となり、1941年にレザー・シャーがドイツに接近したと判断した英ソ両国は「中立国イラン」へ軍事侵攻し、南北から占領した。これによって英ソ両国民帝国による植民地的支配の再来となり、鉄道・通信・石油施設は完全に英ソの軍事利用に組み込まれ、レザー・シャーは退位させられた。こうしてイランは、ドイツの憲法学者C.シュミットが「国内法的には外国、国際法的には内地」と喝破したような、英ソ両国民帝国による「異法域」的状態に置かれた。
山室の第5テーゼが示すように、イランは英ソからの「独立」に際して更なる「国民国家化」を進めるしかなかった。この占領経験がイランの「ナショナリズム」を生み、中東の「資源ナショナリズム」の先駆となったモサッデク政権による石油国有化(1951年)へとつながるのである。
しかし、一度西洋に分割され、近代的な主権国家として独立を強いられたイランの実態は、ペルシア人のみで構成される均質な空間では決してなかった。国内にはアゼリー人やクルド人といった独自の言語と文化を持つ非ペルシア系マイノリティーが存在し、さらに国外には国境を越えたシーア派の宗教的紐帯が広がっていた。すなわち、独立後のイランは初めから独自の「異法域」を重層的に抱え込む宿命にあったのである。
にもかかわらず、レザー・シャーらパフラヴィー朝は「西欧型国民国家」という理念に目を奪われ、この自国が内包する「帝国」としての真の実態を理解できなかった。彼らは均質化を急ぐあまり、周辺地域のマイノリティーを力で抑圧・従属させるという形で、国内に植民地的な格差構造(異法域結合)を作り出してしまった。このようにして、パフラヴィ―朝は大英帝国とソ連の緩衝国から、理念(均質な国民国家)と実態(抑圧的な帝国)が乖離した「国民帝国」になることで主権国家に転生したのである。
その矛盾が決定的に露呈したのが、第二次世界大戦後のマイノリティーの反乱である。その過程で、ソ連軍に占領されていたパフラヴィ―朝イラン北部のアゼルバイジャン州が1945年12月12日にソ連軍の後押しでアゼルバイジャン自治共和国を称して独立し、同州の北部のクルド人集住区もまた1946年1月22日にソ連の傀儡政権クルディスタン自治共和国として独立を宣言した。まさにパフラヴィー朝が力で抑圧していた「異法域」が、国民帝国イランから国民国家として独立しようとしたのである。しかしソ連が石油利権と引き換えに1946年6月に撤兵し両国を見捨てると、同年12月にイランはアゼルバイジャン州に軍を派遣し、両自治共和国を武力で崩壊させ、再び帝国の版図へと強権的に組み込んだ。
山室の「国民帝国」論は、理念と実態が乖離した国民帝国としてのパフラヴィー朝のナショナリズムの分析には有効であり、西欧近代の枠組みに翻弄されたイランのナショナリズムの成立の経緯とその特徴の理解に光を当てるものであった。しかし、それだけでは現在のイランの強靭さを説明することはできない。パフラヴィー朝とその継承国家イラン・イスラーム共和国を統合的に理解し、真の「国民帝国」イランの特殊イラン的特徴を正しく捉えるためには、西欧近代の理論を超え、さらに分析の射程を伸ばし、帝国の一般理論を参照する必要がある。
東アジア、オリエント、西洋の事例を広く渉猟し一次資料を駆使して厳密に分析し、帝国の一般理論の構築を目指した論文集『帝国の研究』で、中央ユーラシア史の世界的権威杉山正明(京都大学名誉教授)は古今東西の帝国の通史を図式化し、「帝国史の第一の画期は前6世紀なかばのハカーマニシュ帝国(アケメネス朝ペルシャ)の出現」と述べ、イラン帝国を帝国の祖型とみなす。特に「中央アジア、メソポタミア、エジプトに及ぶ大帝国アケメネス朝イランの帝国経営を、多種族・多地域・多文化・多言語の大領域国家をいかに統治するかの要点をほとんど網羅しており、以後の人類史における国家・『帝国』の基本形となった」、「『帝国史』の観点からいえば、アレクサンドロスを通じてハカーマニシュ帝国のシステムや方式が結局ローマ帝国へと伝えられたことこそが見逃せない」と述べ、杉山は「その後世に与えた影響ははかりしれない」と述べている。
さらに杉山は「中東にイスラームが出現し、イラン帝国の伝統を吸収して急速に広域の『イスラーム帝国』を形成」したことを、「帝国史の第二の画期」と呼ぶ[4]。
大帝国アケメネス朝が、帝国の祖型であることは間違いない。しかしそれは、アーリア人主義を掲げたパフラヴィー朝がペルシャ帝国の正統な継承国家であることを意味しない。なぜならまずパフラヴィー朝が「イラン帝国」の名に反して「イラン」本来の地を全域にわたって領有していなかったからである。「イラン」は元来ユーフラテス川とアム・ダリヤ川の間の地域を指す地理的概念であり、イラク東部からトルクメニスタン、アフガニスタンまでを含む。第二に言語的統一が見られなかったことである。イラン、アフガニスタン、タジキスタンをペルシャ語を公用語として統一を掲げる言語・民族的「汎ペルシャ主義」が(「汎チュルク主義」や「汎スラブ主義」などと異なり)、理念上すら存在しないからである[5]。
真のイランの帝国性は、特定の民族や言語による支配の中にあるのではない。ペルシャ人(ペルシャ語母語者)貴族が支配層になる広域支配的帝国ペルシャ帝国は消滅し、杉山が指摘する通りペルシャ帝国はイスラーム法により多種族・多地域・多文化・多言語の大領土を治めるイスラーム帝国に変容したのである。すなわち、イランという巨大な器を統合する接着剤は、この時すでに「ペルシア民族」から「イスラーム(法)」へと決定的にアップデートされたのである。
前章で見た通り、イランの統合の正体は民族や言語ではない。中島みゆき作詞作曲の『異国』に「悪口ひとつも自慢のように 故郷の話はあたたかい」という歌詞がある。どんなに不満があろうとも自分のふるさとは愛おしい、という愛郷心を歌ったものである。現在の「大都市の知識層を別としてイスラームの価値観は自由や民主化などの外来思想よりはるかに広く深く社会に根を下ろしている。」「イラン国民の多数派はイラン革命とイスラーム共和体制は一体であり民衆の力が形成したボトムアップ体制と認識している」[6]と若林が述べる通り、私見ではイランの民衆の多くは「国民帝国イラン」を「自分の国」として愛していると考えてしかるべきである。
山室の第一テーゼにある通り、国民帝国イランは世界帝国と国民国家の双面性をもつ。世界帝国としてのイランの世界性は先ず普遍宗教としてのイスラーム、中でも12イマーム派であり、そしてVelāyat-e Faqīh(イスラーム法学者の統治)理論である。山室のテーゼでは国民帝国では格差原理によって本国と支配地域とが異法域結合するとされるが、イスラーム教徒が国民の99%以上を占める国民帝国イランでは、ナショナリズムの基盤はまずイスラームとなり、ついで90%以上を占めるシーア派であることとなる。
注意しなければならないのは、我々は西欧の世俗的ナショナリズムにならされているので、①言語、民族をナショナリズムの基礎におきがちであるがイランではそうではないこと、②キリスト教、仏教、儒教、神道のような法のない宗教とは違い、イスラーム文明圏では「異法域」とは、地域的慣習の違いから生じる行政規則の差異による属地的空間概念であるというよりも宗教の違いによる属人的概念であること、そして、③格差とは血統や母語や出身地や身分のような生得的なものではなく、後天的に習得した学識であること、である。この「脱領域的・属人的な宗教的統合」こそが、イラン・イスラーム共和国を類まれなる国民帝国たらしめている正体である。
言語や民族の違いが国家の分断決定要因とならないイラン独自の構造を証明するために、ここで国内の主要なマイノリティーであるアゼリー人とクルド人の事例を具体的に見ていこう。
まず、最大のマイノリティーであり国民の15〜20%を占めるアゼリー人を取り上げよう。アゼリー人とは言語による分類でアゼリー語を母語とする人たちである。アゼリー語はトルコ共和国のトルコ語と近く意思疎通が可能なテュルク系言語で、アゼルバイジャンの国語である。
現在では歴史的アゼルバイジャンは北部の「アゼルバイジャン共和国」と南部の「イラン領」に分断されているが、アゼリー人は人口においても集住地の面積においてもイランの方が多くなっている。なぜテュルク系のアゼリー人がイランに強固に統合されているのか。その淵源は16世紀のサファヴィー朝に遡る。クズルバーシュと呼ばれるテュルク系(トルコ系)部族連合は、言語やエスニシティーよりも「シーア派への宗教的忠誠」を結束原理としたため、12イマーム派を国教とするサファヴィー朝に発展した。軍事力でペルシャ地域を制圧した彼らであったが、帝国が発展すると行政に長けたペルシャ人官僚の影響が強まり、帝国はペルシャ語を公用語とするペルシャ世界に変貌した[7]。この過程で、アゼルバイジャン社会は母語がテュルク系言語でありながらも、12イマーム派をアイデンティティの核としてペルシャ世界(イラン)に帰属することになったのである。
既述の通りアゼルバイジャン北部がサファヴィー朝の領土となったことでアゼリー人の宗教はシーア派が大多数となっていたが、ソ連に占領され無神論のアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国として独立したために世俗化が進み、テュルク系アゼリー人としてのアイデンティティが強くなって隣国トルコとの関係が深まり、イスラエルとも安全保障において密接な関係を築いている。それゆえ国内のアゼリー人へのアゼルバイジャン民族主義の波及を恐れるイランからは、名目的には同じシーア派でありながらもアゼリー人は警戒されている。
しかし、最も分かりやすい例が、暗殺された最高指導者・故アリー・ハメネイ師である。母方はペルシャ人であり、第3代イマーム・フサインの末裔のアラブ人でもあったが、父方はアゼリー人であった。彼はYoutubeの動画の中で「イラン・イスラームのイランの地においてペルシャ人もトルコ(アゼリー)人と同じくトルコ人もペルシャ人と同じく私たちは皆、イラン人であり、ムスリムの兄弟だ」とアゼリー語で語りかけている。国民帝国イランのナショナリズムとは、実効支配しているイラン領内におけるエスニシティーを超えたイスラームの同胞性ということになる。アゼリー人に関しては多数の宗教権威(マルジャウ)大アヤットラーがいるほかマスウード・ペゼシュキアン現大統領など政界にも有力者が多く、12イマーム派ムスリムの「イラン国民帝国」民としての統合は概ね成功している。
しかしクルド人に関しては多くがスンナ派でありムスリムとしての同胞性に限界がある。彼らが制度的に政治権力から疎外されている点を除いても、部族的社会構造を有し山岳地帯に集住しているなど、社会文化的に経済的に格差がある異法域である。その上、イラクのクルド人地区に越境できる反体制運動の後背地を有しており、統合に限界があるのは確かである。
事実、拙稿「第三次世界大戦はもう始まっている」で詳述した通り、アメリカはイランの体制転覆のために分離独立を餌にクルド人の支援を持ち掛け武装蜂起を使嗾した。これは、植民地支配を安定させるために現地社会の民族、宗教の対立を意図的に強調、固定化し優遇と差別を組み合わせて互いに競合し争わせ、相互不信と宗主国への依存を生み出し、被支配者の連帯と抵抗を弱めるイギリス型帝国主義の「分割統治(divide and rule)」の古典的手法である。しかし、これもイランという国の複雑なナショナリズムを理解していないために失敗を余儀なくされている。
国際的に見ても、日本や欧米で「クルド人問題」として騒がれているのが実際にはトルコのクルド人のごく一部の共産主義者であって、国際的にイランのクルド人が問題となることはない。ISIL(イラク・レヴァント・イスラーム国)との代理戦争でアメリカに使い捨てにされたことで国際的に注目を集めたのもシリアのクルド人であったし、最も政治的に弾圧されているイランのクルド人は海外でのロビー活動が顕著に低調である[8]。そうしたネガティブな意味でイランのクルド人の統合問題は比較的成功していると言えるかもしれない。
国内のマイノリティーを宗教的同胞性によって統合する一方で、イランの「国民帝国」としての真の強靭さは、その支配原理が国境を越えて展開される点にある。パフラヴィー朝が自己認識を見誤ったのとは対照的に、現在のイラン・イスラーム共和国は、自らが国境を越えた宗教的異法域を抱える帝国であるという実態を正確に理解し、意識的、戦略的に行動している。
アリー・ハメネイ師の政治論のキーワードに「実効支配(basṭ-i yad)」がある。文字通りには「手を伸ばす」という意味の動名詞であるが12イマーム派法学では西洋の法学の「法の実効性(effectiveness)」に大体対応する概念である。ホメイニ師のVelāyat-e Faqīh(イスラーム法学者の統治)理論に基づいた政府が樹立された時代がイスラーム法が実効性を獲得した時代であり、その実効支配が及ぶ領域がその政府の領土である[9]。
国民帝国は山室の第一テーゼによると「世界帝国と国民国家の拡張でもありつつ各々の否定として現れるという矛盾と双面性をもつ」。この政治理論で考えれば、前述のC.シュミットの言葉「国内法的には外国、国際法的には内地」とはちょうど逆に、イマームの代理人としてイスラーム法学者の最高権威(マルジャウ)であるイラン・イスラーム共和国の最高指導者の「実効支配(basṭ-i yad)」が及ぶレバノンのヒズブッラーの支配領域は、(イスラーム共和国の真の法である)イスラーム法的にはイラン国民帝国の「国内(ṣuq‘ basṭ-i yad)」とみなされるが、西洋法学の国際法的には「外国」になる。
イランはこの双面性を利用して、ヒズブッラーのような「抵抗の枢軸」の非国家主体の武装勢力を、内向きには12イマーム派法学的な実行支配地として指揮命令系統化におき、彼らを使ってイスラエルのような敵国と戦いつつ、外向きには(西洋の)国際法に基づきそれらの非国家主体の軍事行動は外国の出来事であるとしてイランの国家としての戦争の当事者責任を回避している、と言うこともできる。
しかし、同じ12イマーム派であっても、イラクやレバノンなどのイランの領土外に住む非イラン国民の中には「Velāyat-e Faqīh(イスラーム法学者の統治)」理論を認めない法学者とその追随者たちがおり、彼らにはイランの最高指導者の「実効支配」は及ばない。実はイラン国内のコム(イラン国内第2の聖地がある都市)のイスラーム学界でもホメイニ師の「Velāyat-e Faqīh(イスラーム法学者の統治)」理論を信奉するマルジャウはむしろ少数派である。マルジャウの大半は、ハメネイ師をイスラーム法的に支配の妥当性を有する特定代理としてではなく、西欧の国際法が認める実定法としての憲法が定める正当(valid)な国家元首としてハメネイ師に従っているのである。
このような法学的解釈の差異を抱えつつも、現在進行形の危機がこの巨大な宗教的ネットワーク(国民帝国)をいかに機能させているかを示す重要な出来事があった。この12イマーム派宗教界の基本的構図はイラン戦争勃発後も変わらないが、アリー・ハメネイ師の暗殺後に注目すべき変化があった。それはイラクの12イマーム派法学界の最高権威スィスターニー師の声明である。
トルコの国営アナドル通信が3月12日に報じたところでは、11日にスィスターニー師はモジュタバー・ハメネイ師がイランの新最高指導者に選出されたことを歓迎し、「偉大なイラン国民に奉仕し邪悪な者たちの悪行を挫き国家の統一と結束を維持する上で成功し協力してくれることを期待する」と述べた。
スィスターニー師はホメイニ師の「Velāyat-e Faqīh(イスラーム法学者の統治)」理論を認めずイスラーム法学者が国家元首として政治を司る義務を否定しホメイニ師に対立したイラクの12イマーム学界の法学最高権威、フーイー(Abū l-Qāsim al-Mūsawī al-Khūʾī, 1992年没)師の弟子であり、去年のイスラエルとアメリカのイラン攻撃にも沈黙を守っていた。スィスターニー師が政治的な立場を明言することは稀で、しかも「外国」のイランの政治情勢に直接言及し旗幟を鮮明にすることは極めて例外的である。さらに「『外国』イランの」と言ったが、スィスターニー師はイランのマシュハドで生まれ、マシュハドとコムの神学校で学んだ後にイラクのナジャフに留学しフーイー師に学んだ、れっきとしたイラン人である。そして実はスィスターニー師はコムにも事務所と代理人を置いておりコムのイスラーム法学界でも故アリー・ハメネイ師に次ぐ大権威(マルジャウ)であった。つまりアリー・ハメネイ師が暗殺された現在、スィスターニー師はイラクとイランの12イマーム派法学界、つまりは12イマーム派法学界全体の最高権威と言ってもよい存在なのである。
そのイラン人であるスィスターニー師が、自分より二世代若いモジュタバー・ハメネイ師に「偉大なイラン国民に奉仕し」とイラン人の同胞愛、愛国心を掻き立てる言葉でイランの新最高指導者就任の祝意を伝えた。それがイラン国民、特に若い世代の「国民帝国民」としてのナショナリズムを喚起し、イスラエルとアメリカの不正な侵略との戦いの士気を鼓舞したことは疑いない。国境(西洋的枠組み)を越えた学識の権威が、危機において国民の結束を促す。これこそが、イラン・イスラーム共和国が脱領域的な「国民帝国」として有する底知れぬレジリエンスの証明である。
イラクではアリー・ハメネイ師暗殺直後の3月1日、バグダードのグリーンゾーン周辺で親イラン派勢力による大規模抗議が発生し、デモ隊はバグダードの米大使館への突入を試み、3月7日には米大使館に対してロケット弾が発射されたが、ロイターはこれを「2年以上ぶりの攻撃」と報じており、戦争開始によって休止状態にあった対米攻撃が再開されたことを意味する 。アメリカ、イスラエルはイラン、レバノンに続いてイラクにも新たな戦線を広げることを迫られることになる。
アメリカとイスラエルの攻撃によるイラン・イスラーム共和国政体の存亡をかけたイラン戦争によって、イランとイラクの12イマーム派法学界は結束を強めることになった。しかしそのことはトルコ、サウジアラビア、パキスタンなどのスンナ派の警戒を呼び起こすことにもなり、12イマーム派を超えた中東・中央アジアのイスラーム世界の再編を促すことになるだろう。しかしそれについては稿を改めて論じることにしたい。
[1] 若林啓史「どう見る?イラン・イスラーム共和体制」2026年3月23日付『WebコラムNo.4273』参照。
[2] 「国民帝国(Nation Empire)」は山室が提示した分析概念であり、ヨーロッパ語に正確に対応する言葉はないが、比較的近いのが「Imperial Nation-State」である。なお「帝国」概念に関する理論研究としては、山本有造 (編)『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会2003年11月)、岡本隆司 (編)『宗主権の世界史―東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会2014年11月)が優れている。
[3] 山室信一「国民帝国日本における異法域の統合と格差」『人文学報』 第101号 (2011年3月)64頁。
[4] 杉山正明「帝国史の脈略 ー歴史のなかのモデル化にむけて」 山本有造 (編)『帝国の研究―原理・類型・関係』65~66頁。
[5] 青木健『ペルシア帝国』 (講談社Kindle版2020年9月1日)345~349頁参照。
[6] 若林「どう見る?イラン・イスラーム共和体制」参照。
[7] インドのムガール帝国でも創始者バーブルは武人であるだけでなくチャガタイ語自伝文学の傑作と言われる『バーブル・ナーメ』を著した文人でもあったがテュルク系であった宮廷言語、行政言語は急速にペルシャ語に取って替わられた。
[8] たとえば2022年9月に起きたクルド系女性がヒジャブ(スカーフ)の着用規定に違反したとして「道徳警察(ガシュト・エルシャード)」に拘束され死亡した事件をきっかけに抗議運動がクルド人地区を超えて広がりテヘランやイスファハーンやシーラーズのような都市にも広がり数百人の犠牲者が出たとも言われるが国際報道も一時的なものにとどまった。
[9] アリー・ハメネイ師の「実効支配(basṭ-i yad)」概念については、拙著『イスラーム学』(作品社2020年1月)の第7節〔シーア派法学における「善の命令と悪の阻止」理論の発展とホメイニーによるその革新」]346頁参照。
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