【浜崎洋介】戦後日本と「神経症」―札幌・表現者シンポジウムを通じて。

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 月曜日の藤井先生のメルマガでもお伝えしたように、去る5月12日、札幌の草奔志塾にて、『表現者クライテリオン』のシンポジウムを開催していただきました。
 シンポジウムの内容については、既に藤井先生が纏めていらっしゃる(リンク)ので、ここでそれを繰り返す必要はないでしょう。その後の二次会、そして、未明まで続いた藤井先生のプロ顔負けのライブパファオーマンスまで(笑)、充実した北海道巡業となりました。

 ただ、そのなかで、一番印象に残ったのは、やはり北海道の疲弊ぶりです。実際、様々な方と話させていただくと、東京の浮ついた感じとは違って、身近な日常生活を通じて現状に「危機感」を抱いてらっしゃる方が多いのではないかという印象を受けました。

 なるほど、北海道と言えば、東京への一極集中を裏返したかのような人口減少地域(急激な少子高齢化地域)で、2015年の国勢調査によれば、その減少ぶりは全国最多の12万3000人だったといいます。また、その影響で、公立の小中高校は、2002年から2013年までの12年間に597校が廃校となり(年間50校ペースでの廃校)、JR北海道は2016年末に、単独で維持運営することが困難な10路線13区を発表し、なんと、その合計は1237キロ――JR北海道全線のおよそ半分――にも及んでいるということです。

 そうなれば、経済的苦境が増していくことはもちろん、それに伴っての税収の落ち込み、財政規模の縮小(事実、シンポジウムでは、通貨発行権を持たない地方自治体―つまり、国債のように地方債を発行できない地方自治体は、どのように財政運営をしていくべきかといった質問がありました)、社会保障費の負担増、公共サービスの低下、自治体職員の削減と給与カット…などなど、ネガティブなことばかりが考えられてしまうわけで、おそらく、北海道のみなさんにとって、財政破綻した夕張市は「ヒトゴト」ではないのでしょう。

 もちろん、文芸批評家ごときが、それに対する具体策を持っているわけではないのですが、しかし、この苦境を少しでもマシなものにするためには、少なくとも「国家」の力が必要であることくらいは、私程度の人間でも、すぐに分かることです。

 まずは、藤井先生が『プライマリーバランス亡国論』その他の著作で常日頃訴えられているように、PB制約の撤廃と消費税の凍結、また、「国土の均衡」を考えながらの、強力で、しかも適切な財政出動とインフラ整備(第二青函トンネル、新幹線旭川線などの整備を待つ北海道に限らず、未整備の交通インフラは全国にまだ多くあります)による国内の需要喚起などなど……、まだ国家には打つべき手が多く残っているはずなのです。

 にもかかわらず、この国は全く手を打とうとしない。それは、なぜなのか。

 なるほど、そこには、まず自らの権力保持に必死になっている財務省の問題が大きく横たわっているのでしょう。が、ここまで不条理が嵩んでくると、もはや合理的な要因よりも、精神的な要因の方が大きいような気さえしてくるのも事実です。つまり、日本国民の多くは「国家アレルギー」とでも言うべき病気を患っているのではないかということです。

 たとえば、次のような「神経症」の病状は、戦後日本の性格と似てはいないでしょうか。

「思えば、神経症者とは、今を生きることを放棄して、過去の改悛と未来への不安におののき、それにとらわれてしまった人たちではないのか。症者の多くは、もう終わってしまった過去に対して、あのとき自分は赤面したから友人から変に思われたのではないか、友人が顔をそむけたのは自分の視線がおかしかったからではなかったか、と過去に強迫的にとらわれて、後ろ向きの時間のなかで葛藤を繰り返し、今を積極的に生きることがどうしてもできない。
同時に彼らは、今を通り越して未来への不安に身を震わせる。あのような赤面がまた起こったら自分は社会のなかで生きていけないのではないか、電車に乗れば以前にも増して恐ろしい心悸亢進に襲われるのではないか、という予期恐怖にとらえられて同じく今をいきることができない。」渡辺利夫『神経症の時代―わが内なる森田正馬』文春学藝ライブラリー

 つまり、過去の敗戦のトラウマに囚われ、未来の不安に震えながら、私たちは未だに「国家」の「力」を適切に使うことができないのでいるのではないのかということです。

 ネオリベラリズムの「自由」にこそ苦しんでいる現在において、馬鹿の一つ覚えのように「国家主義ではなく個人の尊厳や社会の多様性を大事にするリベラルの価値は、今の日本に必要なものです」としか繰り返せない政治学者。あるいは、ブレグジットやトランプ現象、そして、もはやネオリベ政策では救えない多くの国民を眼の前にしながら、未だに「自由化(改革)が足りない」だの、「岩盤規制の撤廃」だのとしか言うことのできない経済学者など、私には、ほとんど合理性を超えた存在=「神経症患者」としか見えません。

 とすれば、私たちは、まずは合理的な政策論を徹底すると同時に、並行して、その合理性が通じない日本人の「心」の問題にもメスを入れなければならないということになります。私たちは、一体何に囚われているのか、一体、なぜこんなに不自然な生き方しかできなくなってしまったのか。なぜ、ここまで「生をまっとうする自己保存欲」が壊れているのか。

 ちなみに、先ほど引いた本で紹介されている森田療法(森田正馬による神経症の治療法)によれば、「強迫神経症」は、自らの「意志の力」だけで治すことはできないそうで――なぜなら、自らの意志だけで直そうとすると、今度は「神経症を直さなければ!」という観念が強迫化するからです――、外部からの強制によって「絶対安静」を強いる必要があるらしい。その「安静」のなかで、ようやく、「あるべき自分」(観念)ではなく、「あるがままの自分」(自然)を受け容れ、それに向き直る契機がやってくるとのことです。

 果たして、またしてもポイントは、「あるがままの自分」を認めるという「素直」さと「正直」さ、あるいは、それを認める「勇気」にこそあるということになりそうですが……、そんなことを改めて思わされた札幌・表現者シンポジウでした。

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