クライテリオン・サポーターズ(年間購読)最大6,000円OFF

【読者からの手紙】「差別主義者」というおかしな言葉

山口泰弘(東京都、36歳、サラリーマン)

 

 この十年ほどで、「差別主義者」という言葉を活字でよく目にするようになった。だが、「差別主義者」とは矛盾した用語であり、かえって差別解消を遠ざけるのではないか。
 議論の前提として、差別とは、合理的理由に基づかない取扱いであり、即ち区別と異なり、また、平等に反した取扱いでもある。ここで、平等と区別と差別というように、三つに分類するべきではないかと考える人もいるだろう。だが、平等とは、同じものは同じように扱い、違うものは違うように扱うことであるといえるから、これは合理的理由に基づく取扱い、即ち区別がなされた状態と定義できる。
 このような定義からすれば、差別とは、取扱いに合理的理由がないために生じるが、これは、結局は、人間の感情に基づくものである。同じものを同じように扱うべき場面で、人間の感情が介入すると、同じもの同士でも、「あんなのと一緒にするな」という感情が判断を狂わせるのである。この感情は、差別とは無縁だと思っている人でも、何らかの形で、例えばささやかな自負心を起点として持ちうるものである。
 そして、殆どの差別は、このような感情から生じるのではないか。金持ちが貧乏人を、高学歴者が低学歴者を、共同体における美醜基準に照らして容姿の優れた者が劣った者を、ある人種が異なる人種を、というように、一定の価値基準を持ち出して区別する必要がない場面でそのような尺度を用いることで差別が生じるが、その根底にあるのは、「あんなのと一緒にするな」なのではないか。
 結局、差別は理性に支えられた合理的区別を伴わない、感情から発する思考や言動であるということになり、そこには「主義」といえる思想的体系はない。にもかかわらず、差別を糾弾する側が、差別する側を「差別主義者」と攻撃するのである。
 ただ、差別が感情に基づいているとすれば、議論をもって一定の思想体系を論破することで差別を防止することは難しいということになる。また、公権力が特定の属性に基づいて差別することを法律で禁止することはできても、男女雇用機会均等法のような場合を除いて、私人や私企業の間での差別を禁止することは、ケース・バイ・ケースにならざるを得ない。例えば、電力会社が同性婚のカップルの住宅への電力供給を拒否することや、鉄道会社が同性愛者の乗車を拒否することは、事業の公共性に鑑みれば許されないこととなり、法律で禁じるべきこととなる。他方、同性婚を嫌うパティシエが経営するケーキショップが、同性婚のカップルのためのウェディングケーキの製作を発注された場合にこれを拒否することを、法律や条例で禁じるとすれば、公共性の低い私企業の客を選ぶ自由・事業主の信条を否定して特定の価値観を押し付けることになり、そのような法律や条例は違憲・無効となるべきである。
 このように、差別は、法規制である程度抑止できるものの、一定の限界があることになる。とはいえ、国民統合が国民国家の繁栄に不可欠であることから、差別解消に向けた不断の努力が欠かせない。それには、教育や広報を通じた啓発が必要であるが、そこで浸透されるべきなのは、「同じ日本人である」という同朋意識ではないだろうか。
 グローバル化を志向する人々は、「同じ地球に住む人間同士である」という普遍的隣人愛を広めるべきであると考えるのであろう。しかし、同業者同士や学業関係のつながりなく国境を超えた仲間意識が生まれるのは稀であり、また、人間は他者を意識した存在であり、だからこそ前述のように「あんな奴と一緒にするな」と思いかねないのであるから、地球人意識というのは、我々が宇宙人や異星人と出会ったり、地球人が宇宙に移住して地球と別の共同体を形成したりするまでは、芽生えないだろう。「同じ日本人である」という同朋意識を浸透させることが、国民統合を通じた我が国の繁栄につながり、国民一般が恩恵を実感でき、長い目で見て差別解消につながる、現実的な考え方なのではないだろうか。