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ゲルニカとカサブランカ

橋本由美(東京都)

 

 有名なピカソの『ゲルニカ』。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した名画『カサブランカ』。二つの背景には、スペイン内戦がある。

 『ゲルニカ』と言われて、私がまず連想するものはなんだろうと考えてみる。ピカソの作品ということは知っていても、芸術鑑賞や美術史で出会ったものではなかった。ナチスドイツの空爆や市民の巻き添えや第二次大戦との関連で知ったような気がする。受験の頃、スペイン内戦についてどれだけ知っていただろう。フランコ将軍と共和国軍との戦いで、フランコが勝ったというくらいの貧しい知識であった。この作品は、私の中では、スペイン内戦よりもナチスドイツとの結びつきで記憶されていたように思う。
 『ゲルニカ』にはファシズムに対する自由主義という思想的な評価が粘着テープでべったり貼りついていて、純粋な絵画の鑑賞を妨げている。大抵の人は、戦争の思想的背景を語るための代表的作品としてこの絵と出会うので、それ以外の見方をするのが難しくなってしまう。スペイン内戦がどんなものであったか、あまり知らないまま「反ファシズム」の絵で納得してそのまま通過してしまう。

 『ゲルニカ』は一九三七年七月に公開された。作品の背景はドイツのコンドル軍団によるゲルニカへの空爆で、後に、一般市民の巻き添えが第二次大戦の無差別空爆の象徴として語られるようになる。但し、当時はまだナチスやヒトラーが絶対悪のシンボルとして忌避されていたわけではない。ナチスの反ユダヤ主義については知られていたが、世界の指導者たちはそれがドイツ政府の国内世論を意識した政策くらいに考えていたようだ。イギリス前首相のロイド・ジョージは『デイリー・エクスプレス』に寄稿して、第一次大戦で疲弊したドイツを経済的に復興させたヒトラーの手腕を称賛している。ナチスのユダヤ人迫害が顕著になるのはシナゴーグが襲撃された「水晶の夜」事件が契機で、一九三八年十一月のことである。後世、ユダヤ人迫害はホロコーストのイメージで語られるようになるが、当時はまだ迫害についてもホロコーストについても世界的な問題ではなかったのである。

 第一次大戦後のスペインでは、右派と左派の対立や地方(カタルーニャやバスク地方など)の自治運動が激しくなり、政治は混乱していた。王制下で軍事独裁政権を敷いたプリモ・デ・リベラが退陣した後、三一年の総選挙で共和主義勢力が勝利して共和制に移行する。しかし、彼らの内部は分裂していて政治の混乱が続いていた。共和主義者の中でも左派は過激なアナーキスト集団で、カトリック教会施設や学校の破壊、略奪や虐殺などの暴力行為が激化していた。この暴力行為の蔓延に危機感を抱いた軍部は反乱を計画する。しかし、軍も内部で分裂していて一枚岩ではなかった。国内の混乱を鎮圧するために動いたのが、モロッコ駐屯軍のフランコ将軍である。植民地の実働部隊として統制の取れていたフランコの軍は、迅速な本土襲撃のために、イタリアとドイツに軍隊輸送の支援を要請する。独伊両国がそれぞれの思惑でこれに応えて、モロッコ駐屯軍の空輸作戦は成功した。
 この時のドイツとイタリアは、まだ協調路線を取っていたわけではない。ムッソリーニはスペインを自国の傘下に収めようという思惑で支援したが、ヒトラーはドイツの敵であるソ連の共産主義者が扇動するスペインの人民戦線に対抗するというつもりでフランコに協力したのかもしれない。後に、ヒトラーとムッソリーニが軍事同盟に至る協力関係になったのは、この支援が契機である。

 英仏はスペイン内戦に日和見を決め込んでいた。イギリスは何よりも革命勢力を恐れていた。そして、第一次大戦後疲弊したドイツの再軍備を、反共の防壁として必要なものと見做していた。ロイド・ジョージはベルサイユ条約を構築した人物であるにも拘らず、ヒトラーの山荘で彼と親しく会談し、ヒトラーを称賛しているのである。イギリスはヒトラーを尊敬などしていない。寧ろ不快な存在だっただろう。しかし、中立を装いながら、スターリンを牽制するために目をつぶっていた。ドイツとは、ソビエトの軍事力そのものよりも、共産主義思想の伝播力の怖さで一致していたと言える。
 共和国政府であるフランスは、スペインの軍事勢力のフランコよりも、共和国派の人民戦線にシンパシーを持っていたが、共和主義勢力に支援した場合のイギリスの報復を恐れて沈黙していた。イギリスだけでなく、軍備を増強していた宿敵ドイツをも敵に回すことになる。フランスはスペイン共和主義者からの度重なる武器輸出の要請に応えることが出来なかった。
 スターリンも動かなかった。スペイン共和主義者に武器の供与をすれば、イギリスがフランコ支援に乗り出すことは目に見えていて、それを避けたかった。人民戦線に対して表立った支援はせずに、プロパガンダと各国の共産主義者の義勇軍をスペインに送り込む裏工作だけであった。各国からスペインに向かった義勇軍は、一般の市民というよりも、スターリンの共産主義者とそのシンパが中心であった。
 結局、武器の補給が得られなかった共和主義勢力は、訓練と統率と武器の補給に利のあったフランコの反乱軍に屈服する。各国がそれぞれの思惑で表立った介入を控えていたために、スペインの内戦はヨーロッパ諸国の直接対立には至らなかった。ヨーロッパ全土を巻き込む第二次大戦の火蓋はまだ切られずにいた。

 近年、スペイン内戦について新資料の検証で見直されたことがある。十年ほど前にロバート・キャパの有名な報道写真『崩れ落ちる兵士』がフェイクだったことが明らかになった。『崩れ落ちる兵士』は、フランコの反乱軍と共和国軍の前線での戦いで、共和国軍の兵士が銃弾に倒れる瞬間を撮ったものである。『ライフ』に掲載されて、反フランコ反ナチスの感情を広めた有名な一枚である。しかし、近年、この写真が撮影された場所が背景の山並みから特定され、そこでは一九三六年の写真が撮影された日に戦闘などなかったことが明らかになった。キャパはユダヤ人で、反ナチスを広める目的で共和国軍の兵士に演技をさせたらしいとわかったのである。カメラの機種の特定から、撮影者もキャパではなく、同行者であった可能性が言われている。視覚への刺激は強烈である。一つの画像や映像で人の心を掴むことができるのである。
 ドイツのコンドル軍団のゲルニカ空爆が、一般市民への無差別爆撃ではなく、軍事目標を狙った軍事作戦であったこともわかってきた。バスク地方は人民戦線軍の支配下にあり、その拠点であるビルバオ方面に退却中の人民軍を狙ったものだったという。ゲルニカはその途上にあり、そこには人民軍の部隊が配属されていて近くには軍需工場もあった。この作戦の巻き添えになった一般市民の数も、従来言われているよりも少ない一二〇人から一五〇人程度だと算出されている。同様の規模の空爆はゲルニカに限ったものではなかった。ゲルニカから二〇キロのデュランゴでも空爆があった。バルセロナでの犠牲者は相当な数であった。しかし、ゲルニカだけが語られるようになった。
 これ以前から人民戦線は「焦土作戦」を掲げていて、自由と平和を求める集団というよりも、反乱軍に対する残虐行為を喝采していたという話も伝わる。当時、人民戦線のあまりの非道さを恐れて、フランコを支持した人々もいたという。共和国軍、反乱軍の双方が凄惨な攻撃を繰り返していたのだった。
 当初のヨーロッパの状況下では、ファシズムへの恐れよりも、革命思想の蔓延で共産化することに対する危機感の方が強かったと言える。革命勢力対反共勢力の構図であり、まだファシズムと自由主義の対立の構図ではなかった。対立構図が変化したのは、それまで敵対勢力と見做されていた共産国のソ連が、連合国軍に参加するようになってからである。

 このような状況下で、何故、この田舎町だけが脚光を浴びたのだろう。『タイムズ』の特派員がセンセーショナルに扱ったという話もある。そして、なによりも、後に、反乱軍はファシストだから悪、人民戦線は自由を求める正義で善、というイメージが定着するのに、『ゲルニカ』の果たした役割は大きい。
 『ゲルニカ』は、ピカソの意思でフランコが没するまでアメリカに留められていた。アナーキストの残虐さは語られなくなり、ファシズムへの抵抗の象徴として有名になる。ピカソの意図や作品に至る芸術の思索や、作品の構想や描かれたそれぞれのモチーフの発想がいつだったのか(ゲルニカ空爆より以前と言う説がある)という様々な意見が交わされ議論されているが、作品の象徴するイメージはそのまま固定化した。

 『カサブランカ』は、パリ陥落後のフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブロマンスである。主人公のリックはスペイン内戦に関わった人物であり、ナチスドイツの占領下にあってファシズムに抵抗する男という設定である。
 制作は一九四二年で、その年の十一月に公開された。前年の真珠湾攻撃を契機にアメリカがヨーロッパの戦争に介入した直後の制作で、ハリウッドの全面的な協力の下、ナチスドイツに対する国民向けのプロパガンダとして作られた映画である。

 アメリカの孤立主義は、トランプが始めたものではなく、遺伝体質的なものである。彼らには、独立戦争以来、ヨーロッパの干渉を退けて自国の成長に力を注いで来た歴史がある。だいたい合衆国が大陸の揉め事に関与して碌なことはなかった。特にヨーロッパの戦争に介入して多くの兵士の死傷者を出した第一次大戦の悲惨な記憶がまだ新しかったこの時代に、国民にとって、再びヨーロッパ大陸の戦争に巻き込まれることには、拒絶反応に近いものがあったのである。
 それでも、ルーズベルトのアメリカは参戦した。

 要するに、アメリカ全土を圧倒的に参戦拒否のムードが占めているときに、国民を戦争に誘導する手段のひとつが映画だったということである。
 作品としての『カサブランカ』は名画である。人気俳優のハンフリー・ボガートは、ニヒルで投げやりな態度とは裏腹に、内に秘めた頑固な正義感をよく演じている。昔の男に、ぬけぬけと夫のビザを要求する虫のいい女だと言いながらも、バーグマンの美しさに骨抜きにされた観客は、すっかりイルザに同情してしまう。サムの人柄に安らぎを覚え、彼の奏でる『As Time Goes By』のメロディが私たちを切なく魅了する。主人公にすっかり感情移入させられた観客は、通底する対独感情をも共有するようになる。
 実に細かいところまで、徹底してドイツ軍は悪役である。それが、巧みにストーリーに織り込まれていて、表現も自然である。リックはドイツ銀行の小切手を無言で破り捨てる。ドイツ占領下のブルガリアから逃亡してきた新婚夫婦のために、店のルーレットの八百長を命じてビザの資金を稼がせてやる。どの場面もさりげなく粋ですらある。レジスタンスのシンパだったというルノー署長は、ドイツ産のミネラルウォーターのボトルを投げ棄てる。圧巻は、リックの店でドイツ軍の兵士たちが歌う「ラインの守り」に対抗して、他の客の全てが総立ちになり「ラ・マルセイエーズ」を合唱するシーンである。ドイツ軍との戦闘場面はなくても、大衆の好むラブロマンスにはらはらさせられているうちに、いつの間にかドイツは悪だと徹底的に刷り込まれていく。
 
 この映画では、スペイン内戦は既に過去のことである。しかし、リックがフランコと戦った共和国軍の義勇兵であったことで、フランコは悪役とわかる。ここでは既に、スペイン内戦が自由を求める市民とファシズムとの戦いとして扱われていて、共和国軍の共産主義的革命派も過激なアナーキストも自由主義者と同義である。ルーズベルトの参戦とスターリンの連合国入りで、スペイン内戦への見方は変化したと言える。

 プロパガンダはあらゆる伝達手段を使って広められる。これは、どの時代でもどの陣営でも同じである。第二次大戦時には、アメリカでもドイツでもイギリスでもソ連でも中国でも日本でも例外なく国民向けのプロパガンダは行われた。
 共産主義と自由主義は、第二次大戦後の冷戦時代の対立思想であった。大戦前のドイツが防共の最前線と見做されて、イギリスの宥和政策を許したのも同じ発想であった。しかし、戦時中の『カサブランカ』では、自由を弾圧するのはヒトラーのファシズムだけであり、スターリンの独裁は語られない。
本質的に共産主義は議会制民主主義と対立する。毛沢東や習近平の統治でも明らかである。「悪であるファシズムに対抗する勢力は全て善であり、ソ連の共産党政権も反ファシズムであるから善である」という構図は、スターリンによって流布された。フランコはヒトラーとファシズムで括られ、自由の敵と見做される。スペイン内戦の当時、ヨーロッパの民主主義国家が共産主義勢力と対抗していたことは忘れられ、ファシズムだけが唯一の自由の敵とされた。ルーズベルトのアメリカもチャーチルのイギリスもこれに与した。

 ピカソは連合軍によるパリ解放後にフランス共産党員となり、一九五〇年にはスターリン平和賞を受賞している。