「徹底」という言葉の非現実的コミカルさ

川北貴明(大阪府、32才、芸術家)

 

 日本ではコロナ以降、今まで以上に「徹底」なる言葉がスローガンのように公の場で使用されている。例えば「感染対策の徹底」や「アルコール消毒の徹底」、「換気の徹底」あるいは「マスク着用の徹底」である。

 

 しかしそもそも「徹底」の意味は「底まで貫く、行動を絶対に、完璧にやり抜く」である。そういえば保守とみなされている人にも、「岩盤規制の撤廃」や「抜本的改革」を唱えている人がいたような。それはさておき、徹底が「絶対にやり抜く」ことを意味するならば、上記の「徹底」はそれが可能であり、できるまで止めないことを示している。そこには「本当にこんなことができるのか」、「急速にルールを変えていいのか」などの懐疑の精神は無い。そして「いかに止めるか、どのように終わらすか」も、また。

 

 そのような姿勢のもとでの「徹底」は、命令となり時には脅迫となる。実際に「マスク警察」や「自粛警察」や過度の衛生主義が「正義」と目されている。日本は、いつからマスクを着用していない人を殴っていい国になったのか。要するに、現在の日本における「徹底」とは「やれ(よ)」である。同義語には「お願い」がある。お願いですので、徹底という表現を安易に用いるのはやめませんか。

 

 もっと言えばコロナ対策で「徹底」を言う人は、コロナの類以外でも、普段の生活でも「徹底」を心掛けているのだろうか。つまり、「徹底を徹底」しているならば、一応は他人にものを言うことはできる。いわゆる「自分に厳しく他人に厳しい」態度である。

 健康のためのダイエットやトレーニング、自身を高め自身を知るための勉強や読書、エッセンシャルワーカーだけでなく仕事全般への感謝、他人を外見や肩書のみでは決めない総合的判断、普段は気にしなかった近所の人への挨拶など、当然ながらこれくらいはやっているはずである。

 果たして現実はどうだろうか。やり抜くどころか三日坊主の人は多かったのではないか。そんな人たちが2020年に、坊主頭の高校球児や五輪出場を目指していたアスリートに汚い言葉を浴びせていた醜態を、私は忘れない。拍手やライトアップ程度では、その罪は消えない。

 

 

 「自分に甘く他人に厳しい」人が、完璧さを求めさせる現実は喜劇かそれとも悲劇か。

 

 そして、疫病について極端な安全を徹底的に追求し追及するなかで、少なくない人がどの「至上主義」陣営につくかを「空気を読んで」模索している。自分自身を徹底することもせず、日々安心と不安を繰り返している。上下左右の極端な世界で、右往左往し一喜一憂している状態にある。「徹底」は極端に行きつくのである。

 さらにこれはコロナに限った話ではない。例えばダイエットすら三日坊主なのに、新興宗教団体を徹底的に潰して、その後始末は考えていますか。

 

 私が大切にしているのは過剰や極端を避けることである。「保守思想を規準に生きる」とはそういうことだと考えている。しかしそれを実践する人は少ないだろう。なぜかというと、極端な判断は楽だからだ。それには甘い蜜のような魅力がある。

 

 いっそのこと、「附子」でも喰らってグレートリセットを……。あ、これも非現実的コミックだ。