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次郎さんの絵

川村宏樹(57歳・会社員・東京都)

 

 東京都内の自宅の物入れの奥に画用紙に描かれた古い油絵と水彩画が数点、それに小さなスケッチブックが眠っている。母方の祖父の弟(私から見て『大叔父』)が生前に描き残したものだ。それらを縁あって私が保管させていただいている。

 これらの絵が描かれた正確な年月日は分からない。殆どは戦前から戦中にかけて、すなわち昭和十年から十九年あたりと思われる。

 

 『大叔父』小澤次郎氏は大正六年、三重県松阪市内で代々魚屋を営む小澤家の次男として生まれた。剣道三段、絵も得意、英語の弁論大会で優勝するなど、文武両道に秀でていたという。幼くして父を亡くした後、五つ上の兄が中学を出てすぐに魚屋を継いで一家を支え、次郎氏の学費も出した。三重県津市の師範学校を出て、母校の松阪市立第一小学校の教師となった。昭和十九年六月に出征し、翌二十年三月、フィリピン諸島ルソン島で戦死。当時の他の多くの戦没者と同様、彼の骨はどこに眠っているのか分からない。菩提寺のお墓の中には遺髪があるだけだ。

 

 絵が描かれてから既に八十年近い年月が経っている。絵の具や紙の劣化が心配だった。そんな中、コロナ禍の給付金が国民一人一人に支給されることになった。私はその十万円を絵の修復作業に充てることにした。

 銀座の某画廊に相談し、工房に油絵と水彩画を持ち込んだ。

「なかなかの腕前ですね」

 白髪の老主人の言葉を聞き、私は意を強くした。紙の裏側の「くすみ」を取り除き、紙を「消毒」する方法が良かろうということになった。覚悟はしていたものの、数日後に送られてきた見積もり金額を見て私は驚いた。予算の四倍近い数字だった。

 そこで私は修復の対象を水彩画二枚に絞ることにした。

 一枚目は、松林の陰から見た浜辺。波打ち際で子供たちが遊んでいる。

 二枚目は、木々の間の小道を歩く二人の女性の後ろ姿。良家の母と娘なのか、一人は白い和服姿で日傘をさし、少し背の高いもう一人の方は白い洋服を着ている。そして、木々の奥には大きな鳥居が描かれている。

 

 コロナ禍の夏が終わる頃、二枚の絵が明るく蘇って戻ってきた。

「どの場所を描いたものなのか?」

 あらためて知りたくなり、実家(三重県松阪市)の両親の記憶も頼りに場所探しをしていたところ、弟が二枚目の絵について、「あの鳥居は本居神社で、左側の緑の木々は松坂城址ではないか?」という。帰省した際に行ってみたら、確かに鳥居の見える角度が絵と同じだった。

 

 本居神社(現在は「本居宣長の宮」という)は、その名の通り江戸時代に「古事記伝」を著した本居宣長を奉る神社だ。向かいにある松坂城址には関連資料を展示する記念館と、彼が三十五年の歳月をかけて「古事記伝」を執筆していた自宅が移設・保存され一般公開されている。

 

 東京の自宅に戻ってから、あらためて次郎さんの絵を見て驚いた。白だと記憶していた日傘は、実はピンクに近い赤で鮮やかに塗られていた。奥の入道雲と二人の女性の白い服の間にあって、私にはそれが白地に赤の日の丸に見えた。

 その時、私の目の前に、この絵を描いている次郎さんの姿がまざまざと現れた。降り頻る蝉時雨の中、彼は鳥居の側から城址と神社の間の小道を見ながら、画用紙と向き合っている・・・。

「私がこの世から消えた後も、この絵は残るだろう」

 そう彼は思っていたのだろうか?

 そんなことを考えていると、ふと私自身がその場で絵を描いていたかのような、不思議な感覚に包まれた。私は彼の一部であり、彼もまた私の一部、なのではないか。そうとさえ思えてくる。これを錯覚と言ってしまうのはあまりに寂しい気がする。

 この絵を残そう。

 次郎さんがこの絵を描くことに注いだのと同じ熱量で、私は子供や孫たちに次郎さんのことを語り伝えていきたい。それが何よりの供養だ。そう思っている。