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経済栄えて民滅ぶ

北澤孝典(49歳・農業・長野県)

 

日経新聞や専門誌を開かずとも、テレビにネットに一般紙に、毎日膨大に溢れる経済情報。

株式や物の値段の高低がニュースとして報道されることが、今や日常となっている。

確かに、現代社会の文化的生活を維持する上で、様々なサービスと交換可能な貨幣が欠かせない存在であることは、誰しもが認める事実ではある。また、限られた資源で、未来のためのインフラを整備するためには、財政が重要で、学問として社会全体で育てていく必要があることにも異論は無い。

しかしながら問題は、その道具としての存在が、もはや絶対的一神教の教義の如く扱われ、国民全体が信者として、疑いも無く信奉している姿である。

税収至上主義に血眼な地方自治体は、政治課題として大型商業施設を積極的に誘致し、反面で近視眼的な不採算を理由に、公立学校や鉄道の維持管理は自ら進んで放棄する。いずれも短期的な経済的合理性を最優先にした公共政策が取られている所以である。現に、麻生副総理も、2020年財務大臣当時『我々、マーケットと仕事してますんで~』と国会で堂々と述べている。

経済学者宇沢弘文は生前、公共性の高い自然環境や社会的インフラ、および制度を『社会的共通資本』として共通管理する必要性を指摘しているが、残念ながらどの分野にも、今やマーケッティズムが席捲し、ごく一部の強者と圧倒的多数の弱者を生み続けている。

筆者は、田舎の信用金庫に新卒入社し、その後首都圏の大手銀行に勤務。端くれではあるが、金融業の片棒を担いだ経験を持つ。97年新卒組なので、金融ビッグバンの大号令以降の規制緩和の中で働き続けた。市場のニーズに柔軟に対応するためだの、グローバルスタンダードだの、その時々で尤もらしいキャッチフレーズに自己陶酔しながら、それまで築き上げられてきた銀行や金融の社会的信用と引き換えに、アップフロントと呼ばれる暴利を貪った。

幸か不幸か、小生のような田舎者には、永年都会の銀行員を勤めるような度胸は備わっていなかったようで、第二子を授かったのを機に、都会のコンクリートジャングルから逃げ出し、罪滅ぼしのように田舎で農業を始めた。

直観を信じた生き方に一定の満足感を得たのも束の間、田舎の隅々まで蔓延っているマーケッティズムに直面し、根は相当に深いと絶望を感じている。

子どもを連れて行きたくても、医療機関は予約を取るだけでどこも長蛇の列、多子世帯にとっては医療サービスを受けることは大きな負担となっている。また、かつてはどの子も歩いて通った近所の公立学校も、周辺の複数校と統合されて、バスで遠くまで通う羽目に。永年地元の様々な産業を支えてきた鉄道でさえ、今この一瞬の利用者減少を理由に、いとも容易く廃線に追い込まれている。滑稽なのは、廃線直後に降って湧いた大型商業施設の出店計画に、一攫千金を目論んだ大勢のマモニスト達が群がる姿だ。

いずれにしても、本来の経済学が思想として咀嚼され、歴史や伝統に重きを置いて、豊かな社会を子々孫々に引き継ごうとする公共政策が取られていたなら、現実は違っていたのだろう。

残念ながら、宇沢が規定した自然環境や教育施設、医療機関や交通機関までもが、私有権を論拠に金儲けの具と化している、と言わざるを得ない。

冒頭で認めたように、あらゆるものが高度に技術化された今日、法人を経営する立場でなくても、いわゆる経済知識は必修科目なのだろうが、物の値段や市場の動向等、その程度の情報に『経済』という言葉使うこと自体、自分には憚られる。

言わずもがな、経世済民とは、『世を經(おさ)め、民を濟(すく)う』ことであるはずだが、西部邁が指摘した通り、我が国の経済学は、上等な思想として輸入されたはずのオイコス・ノモス(家の法(のり))とは程遠い、商品フェティシズムに毒された精神および行動の病理と化してしまっている。