「正しさ」と愛国心

谷川岳士(大阪府、37歳、会社役員)

 

 ナショナリズムを語る時、我が国の歴史的な正当性、特に近現代史において侮辱され不当に名誉を貶められている事に反駁し、我々にこそ「正当性」や「正義」があると主張する意見をしばしば見かけます。そういったナショナリズムを語る文脈に「正しさ」を絡めてしまう危険性について指摘したいと思います。これは各個人のいわゆる歴史認識や解釈等は、例えイデオロギーを共有していたとしても何事につけ必ず異なるものなので、その辺りは今回は留保します。

 指摘したいのはいわゆる保守的な愛国心というスタンスに基づいて「正当性」が語られる事それ自体について。その言動にはどこかある種の危うさを感じる事があります。もちろん言うまでもなく、歴史的な文脈を可能な限り良心に基づいて正しく解釈し、そこに正しさを見出す事はとても大切だと思います。私個人の意見を述べるならのそういった歴史解釈上の我が国の正当性の多くに強く同意します。

 しかし違和感を拭えないのが、その主張をする人々は「正しさ」それ自体を根拠とした愛国心となっているような気がしてならないのです。あえて言うならば「正しくない」祖国に愛国心を抱いてはいけないのでしょうか。ありえない仮定ですが、もし周辺国から糾弾されているようなかつて日本軍が行ったと非難される残虐非道な行為の全てが事実だったとしたら、我々は卑屈に、卑小に、自罰的に、自虐的に、極東の果てに縮こまって生きていかねばならなかったのでしょうか。

 クリント・イーストウッド監督の映画「アメリカンスナイパー」では明確に愛国心を描きながら、同時に祖国の罪が示されます。出撃前に「俺達は正しいのか…」と逡巡する同僚に対し、主人公は「邪悪な奴らを見ただろ?」「俺達は祖国を守っているんだ」と答えます。しかしその後に彼自身もまた「味方を守る」か、重火器を手にした「少年を射殺する」か、という選択を迫られ、彼の正しさのあり方も強烈に問われる事になります。家族や戦友との絆、祖国を守る愛国心を描きながら、全く同時にその罪も示されます。このアンビバレントな複雑さの中にこそ本当に必要な愛国心があるのではないでしょうか。

 確かに我が国に不当に着せられた汚名は、正しく史実に基づいた上で雪がねばなりません。しかしその「正しさ」自体を愛国心の拠り所としてしまう事はとても脆弱に思えます。仮にもし何か新たな資料の発見によって我々の正しさが完全に失われる事があったとしたら、その時正しさを求める愛国心は一体どこへ向かうでしょうか。あるいはこれからの未来、我々自身が選択を誤った時、大きな罪を犯してしまった時、我々は我々自身を否定しなければならないのでしょうか。我が国に過ちや罪に塗れた歴史があったとしても、これからの未来に失敗を積み重ね続けるとしても、我々は我々のナショナリズムを堂々と胸に誇るべきではないでしょうか。

 人はみな「正しく」ありたいものだと思います。しかし選択を間違えない人間がいないように、国家も道を誤ります。その瞬間「正しさ」に立脚した愛国心は行き場を失い、ある人は自虐史観に染まり「”対外的”な正しさ」にレーゾンデートルを見出し、ある人は我が国を不合理で不条理な国と断じその脆弱な愛国心は新自由主義と形を変え「”合理的”な正しさ」を求めてしまったのでしょう。我々の戦後史の歪さはそうして「正しさ」を求めて彷徨った結果ではないかと私には思えます。

 ネオリベラリズムも自虐史観もあるいは”愛国者”でさえも、それぞれの主張は反目しているようで、自身の無謬性にばかり惑溺しているという点において、その内心は大差ないものだと私には見えます。

 これからの未来、我々は必ず道を誤ります。その時正しくない自身の姿に心を折られず、正しくないこの国へのナショナリズムを堂々と胸をはっていくことが出来た時、我々の未来がようやく開けるのではないかという気がします。