負債ということ~資本主義の根幹要素~

山田一郎(46歳、神奈川県、国家公務員)

 

 「負債」というものについては、一般にそれこそ文字通り「負」のイメージがあるであろう。借金のある人とは結婚しない方がいい、借りた金は返せ、といった具合である。
 それは確かに事実である。しかし、もう少し冷静になって「負債」というものの意味を考えてみることも必要ではないだろうか。
 家庭、会社、国家の、それぞれの「負債」というものを考えてみると、まず「家庭」については、「負債」は、概ね住宅ローンといった「大きな買い物」に伴うものである。一般に得られるサラリーの範囲では、住宅は高額すぎてキャッシュで買うことはできない。そのような高額のキャッシュをまとめて用意することは、なかなか難しい。したがって、「まとまった大きなお金」を用意すべく、金融機関からお金を借りる(住宅ローンを組む)ということになる。
 これは、住宅ローンの返済期間についての、収入の「見込み」がある限りにおいては、何ら問題はなく、仮に収入の見込みが外れても、抵当権の行使といった形で清算が可能なものである。
 次に、「会社」については、「負債」は、より一般的なものであろう。「借入」や「社債」といった形で「負債」を負って、「投資」を行う。これは、会社においても「まとまった大きなお金」、いわば、投資の元手となるものは、一般には手元にないからだ。他人から資本を調達する他人資本という形で負債を負う必要が出てくる。
 一方で、会社は「株式発行」という方法で、返済の必要のない資本調達の方法も有している。また、「内部留保」という方法もある。いずれも自己資本という形のものである。これらの方法が、会社を「大きく」することを可能にした。
 次に、「国家」については、「負債」は、「国債」といった形で「負債」を負って、「投資」や「消費」を行う。いわば、「公共投資」や「公共消費」を行うことになる。前者は主にインフラ整備といったように「社会的生産力」の向上につながり、後者は主に景気対策といったように社会の「有効需要」の向上につながる。
 一方で、国家は、「徴税権」に基づき、税を徴収することができる。国家財政は、「まとまった大きなお金」を有している。
 以上のように、家庭、会社、国家の「負債」の在り方は、それぞれ異なる。一概に同列に並べて捉えることはできないし、また不適当でもある。家庭には株式の発行権も無ければ、徴税権も無い。会社には徴税権は無い。国家には株式の発行権は無い。
 それぞれの違いを踏まえた上で、負債による「まとまった大きなお金」をどのように使うかが重要となってくる。ここには、負債の「負のイメージ」とは別のものが見えてくるのではないだろうか。ここに、資本主義の根幹要素がある。
 「負債」を負える力は、家庭、会社、国家の順で大きくなる。家庭は、宝くじにでも当たらない限り、限られたサラリーで返済の見込みが立つ範囲でしか負債を負えない。子や孫の代をあてにすることはできない。
 会社は、固定資産の切り売りにならない流動資産の範囲で負債を負うことが一般に妥当であろう。また、所有と経営の分離に基づく株式会社のように、いわゆるゴーイングコンサーンとなれば、現世代のみで負債を清算する必要は無い。
 国家は、家庭や会社よりも「負債」を負える力を有している。ある意味、子や孫の代をあてにすることができるのだ。国家が国家である限りは。
 我々は資本主義の根幹要素としての「負債」というものを冷静に捉える必要がある。