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平成の堕落

八田侑子(56歳、京都府、会社役員)

 

 平成においてテレビを見なくなった。それでも「平成」の衝撃的映像として、「阪神淡路大震災」、「東日本大震災」の巨大地震や多数の自然災害の映像とオウム真理教サティアンに突入する機動隊、北朝鮮からの拉致被害者帰国の映像が思い浮ぶ。しかし、問題にしたいのは「平成」の日本人を語る映像である。
 平成十八年六月、時の首相である小泉純一郎はアメリカ、テネシー州メンフィスのエルヴィス・プレスリー記念館を時のアメリカ大統領ブッシュ夫妻と共に訪れた。彼ははしゃいでいた、はしゃいでみせていた。そして、上衣を脱ぎシャツの腕を捲り上げサングラスを掛けたかと思うと大袈裟にプレスリーがギターを弾く「マネ」をしてみせた。夫妻は笑い、彼は満足気であった。
 国家という上衣を脱ぎ棄てたこの首相の振舞いは、媚びることを屈辱と思わなくなった日本の姿そのものであった。かつて屈辱的外交が「土下座外交」という言葉で揶揄されたが、その土下座には「恥入る」ということがまだあった。この恥入るということさえかなぐり捨てた国とも言えないこの国の事実が明白になったのである。
 それまでの歴代首相は、それが実質ではなくても「立派さ」を演じていた。立派さとは、将来を見据えた現在への意志や実行力といった処し方にあるのは勿論であるが、それよりも坂本多加雄も述べていた様に歴史や伝統によって立つ態度に依拠するものである。そこには自制心も伺えるであろう。しかし、小泉純一郎という首相は、歴史というものを引受ける立派さを放棄し、現在にのみ縋っていた。彼が過去を否定し、ただただ「改革」を標榜し続けたことと重なる。そして、その改革とは、所詮アメリカの意向に沿った、アメリカのマネでしかなく、日本の過去からくる在り方を否定することであった。そしてその末路はこのような無様でしかないことを、彼の姿は見せつけてもいた。
 一国の首相の驚愕すべき振舞いを世界の衆目にさらしたにもかかわらず、醜悪さを見せつけられたのは、その醜態の主を首相とする日本国民であった。しかし、大勢は見て見ぬふりをした。つまり黙って「媚びる」屈辱を受け入れたのである。それだけではない、己れの自己欺瞞を誤魔化すために、この首相の掲げる改革に熱狂しさえしたのである。自己を問わない者は、社会の諸制度や構造といった外部に恨みを持つことで、自分の不甲斐なさを解消しようとする。
 また、彼らは劇的な変化、つまり一夜にして自分に都合のよい世界が出現することを熱望する。そのありうべからざる夢物語を煽るのがマスコミである。現実や、まして歴史など顧みることはなく、そのマスコミが差し出す「人物」や「スローガン」に簡単に嵌まってしまう。
 果たして、この差し出された人物達に共通して見えるのは、エゴイスティックなナルシシズムである。ナルシシズムの塊と言ってもいい。ただ自説のみに固執し、それが世間を席捲するのを見たいだけである。他人や国家のことなど微塵も考えていないが、振りをするに言葉が巧みであり、人やモノを利用するに長けている。これは、平成に生れ猛威を振るう「オレオレ詐欺」と相似である。
 詐欺被害に会った方には申し訳ないが、大半の被害者は欲につけ込まれるのである。「お金の力を信じ、お金で解決をしようとし、お金に裏切られる」のである。損得勘定の算盤は、いつも御破算されるように出来ている。
 自分の人生は、時節がどうあろうと、自らの手で地道に暮らして行くしかないと悟った者は、詐欺にも合わないであろう。しかし、自らの力に恃まない者は、何かに依存するしかない。そして裏切られるのであるが、依存した己れを直視するものもいれば、それを見ないでさらに依存を深めてゆくものもある。ここで明らかなのは、己れを直視したものは、その依存から脱却できる可能性を得るということである。つまり己れを我が手に取り戻すことができるのである。
 我々、日本国民がこの新しい御代を迎えてまずなすべきは、己れの姿を直視することである。借り物のイデオロギーや手垢のついた成功体験で汚れた眼と「ことなかれ」の臆病さではなく、謙虚な眼と「立向かう」勇気を持って真摯に己れの姿を視ることである。それが出来なければ、この御代にこの国は完全に没落し、やがて滅亡する。