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纏足

吉田真澄(会社員、62歳)

 

 布でぐるぐる巻きにして変形させた小さな足を、美しい装飾がほどこされた、やはり小さな靴に包み、頼りなさげに歩く女性たち。
 その儚げな仕草にセクシャルな欲望をおぼえ、満たされた己の支配欲に目を細める貴族たち。あまつさえ、鬱血し、屈曲した足指の間にアーモンドを挟んで食べたり、盃を載せ、酒を飲んでみたり…。いやはや、男たちの飽くなき想像力やフェティッシュな変態性には、恐れ入るばかりである。
 
 ところで、中国の北宗の時代に宮廷の後宮で始まり、清朝末まで受け継がれていったこの「纏足」という風習。どこか、日本をここ20年来の長期デフレに陥れた我が国の経済政策と似てないだろうか?
 まず、プライマリー・バランス(基礎的財政収支)という長ものの拘束具によって積極財政策に足枷をかけ、経済における血のめぐりである、お金の循環を滞らせ、あれが足らん、これも足らん、ここがいかん!といった言葉責めを加えて将来不安を煽った結果、逆に人々の貯蓄性向を高め、デフレスパイラルをいよいよ深刻なものにしていく。
 本来、身体の隅々まで行きわたり、代謝によって細胞を賦活化させるはずの血を民間経済部門へ回さず、洋もの教科書どおりのショートカット経路へと導き、局部的な金融緩和策を実施してみたものの、どうしてもデフレ傾向に歯止めがかからない。そればかりか、大胆な金融政策だけではインフレトレンドをつくれない、という注目すべき経済現象を生起させ(これだけは、最先端だ)、先進の経済理論に実例を提供している有り様である。やっていることときたら、ひどく頭でっかち(頭蓋のみか?)で、変則的なのである。あげくに、たび重なる消費増税で人々に手枷をかけ、とどめ!とばかり四度目の消費増税(ついに猿轡か?)まで導入しようというのである。
 
 目を閉じて考えてみてほしい。デフレ下での経済政策の肝とは、なるべく多くの人までお金という血を行き巡らせ、澱みや停滞を解消することなのではないのか?それなのに奇策を打ち出しては失敗し、ヘリコプターマネーとかベーシックインカム(最後の手段としては正しいのかもしれないが、それじゃ小学生並みの政策論だ)とか大騒ぎし、またもや洋ものに縋ろうとしているのだ。

 近年の消費増税論議や、あの金融庁が、今さらながらに公表した老後資金問題や、私自身が仕事で関わっている地方自治体にまで浸透しているプライマリーバランス志向の根底にあるものを探りたくて、私はここ数ヶ月、本業の合間をみて経済、財政、金融政策に関するさまざまな論説や資料を読みあさってみた。結果、辿りついたのは、「知識階級による、贖罪としての禁欲主義」というイメージだった。〈知識階級〉は〈指導者層〉という言葉に置き換えてもいいのかもしれない。しかし、彼らは経済活動が有機的で、人間が経済合理主義的ではない行動様式を持つ動物であることを顧みない点で、真の知識階級ではないし、指導者層たる資質など持ち合わせていないのである。たとえそれが経済学、財政学、政治学といった顔つきをしていたとしても底流にあるものはピューリタニズム、カルビニズム、小乗仏教のような禁欲主義、つまりきわめて宗教的な志向(それだけにこの問題は根が深い。)に過ぎないのである。だからこそ、まるで『真理の探究を忘れたストア学派』みたいに、何かにつけ私たちを、原罪→行→救済というプロセスへと導こうとしているのだ。

 中曽根臨調、橋本政権下の緊縮財政政策、菅政権下におけるプライマリーバランスの黒字化を目指す財政健全化計画、野田政権下の社会保障・税一体改革及び消費増税への三党合意、安倍政権下の二度にわたる消費増税、不発に終わった第二の矢(財政出動)。そしてアベノミクス以前の日銀の金融政策、財務省による長年の緊縮財政路線、ゼロシーリング、東日本大震災後の復興増税…。
巫女の座は次々と入れ替わったが、まったく鶴田浩二の「傷だらけの人生」(作詞 藤田まさと 作曲 吉田正)の一節でも口ずさみたくなる体たらくなのである。この状態が「纏足」でなくて何であろう。

 どんなにマニアックな性癖や奇習であっても、それが人々の間で育まれてきた習俗であるなら、一定の敬意を表すべきだと思う。しかし、大多数の国民の未来を左右する経済政策に、生真面目で、禁欲的で、変態的な美意識を持ち込まないでもらいたい。そんなことは、人里離れた山奥に会員制秘密クラブでもつくってやっていただきたいものである。倶楽部TENSOKU。若者は誰も入会しないと思うけどね。