改題第9号(通巻第87号) 読者からの手紙

構えとしての保守

僕の中で、「主義」にまで高められるものは、おそらくほとんど無いと言ってよい。
少し異なる言い方をすれば、一般に「主義」や「主張」と言われているものは、僕にとって「構え」(「態度」・「仮構」)であって、自らの「主義」・「主張」(と言われているもの)を疑いながら、その妥当性を探るところにおいて、はじめて「思想」なるものが成立する、と思うのである。

したがって、様々の具体的「主張」は、自ら疑いをかけながら行なうほかない、というのが現在における僕の状況である。それは、なかなかに苦しいことではある。しかし、その大前提を有しておれば、なにかの「信奉者」となることはないし、自分とはかなり異なる意見でもとりあえずは聞くことが出来る。
それでも信ずる“もの”はある。「構え」を“懐疑すること”や、歴史における伝統とそれを“畏怖すること”。そして、超越なるものや理想、はたまた「愛」など・・・。おそらく、それらを失ったときに人間は、合理・事物・事実主義となって窒息してしまうであろう。

僕が思うに、おそらく前者が「公の精神」であり、後者が「私の精神」なのである。「公」において示すべきは、あるいは「公」そのものが、「構え」や「態度」や「仮構」なのであって、それを構築するのは後者の「信ずる“もの”」、すなわち「私の精神」なのである。もちろん「公私」の概念は、ある程度抽象的であるからして、“もの”を「私」と「公」で完全に分別することなどは出来ない。したがって、「私の精神」において「公」(と思われる)“もの”を信じてもよいのは論を俟たない。
くどくどと述べたが、つまるところ僕は、自身の主張を疑うことを「信ずる」、という点において間違いなく懐疑的であり、歴史や伝統、超越などを畏怖し「信ずる」という意味において間違いなく保守的なのである。だから、懐疑的な保守「主義」者としてありたいと強く、思う。

改めて確認する必要など無いが、総じて言えば、過去の長い歴史よりも優れているはずのない自分が、それでもやはりこの時代に生きるほかなく、なんらかの意見を表明しなければならないのであってみれば、歴史を畏怖し、そこに通底していると仮定される「精神」すなわち伝統に目を見開いて、おのれの小ささや不完全さを認識したうえで、ああやはり「主張」などえらそうにはできぬ、と思いながらも、それでもしなければならないのだ、といったふうに悩み続け、考え続けるのが「構えとしての保守」なのだろう。

「保守といえば~を主張して当たり前だ」ではなく、上に述べた「回路」を経由したところに初めて、例えば「対米自立」のような「主張」をする。そして、それをパブリックすなわち「公」において堂々と「主張」して見せる。
しかし、現代という時代の薄っぺらさによるものなのか、こういった“面倒な話”、つまり「価値」についての議論がほとんど出来ず、ただお前は右なのか左なのか、で片付けられるくだらなさとやりきれなさときたら・・・・、ああやんぬるかな。

投稿者 : 

  • 玉置文弥(たまおきぶんや)(23歳、愛知県、大学院生)

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