参拝という習慣

佐々木広(22歳、神奈川、学生)

 

 昨年の夏の始め頃からでしょうか、私は、神社に参拝する習慣を続けてきました。学校と自宅の間に、格好の良い社が一つありましたので、通学の途中で、朝と晩の一日二回にわたりお参りをするのです。
 このご時世、どうしてそんなことをし始めたのか、一応の経緯は、次のようなものです。

 私の大学は、海外との交流が多いらしく、身近な存在として留学生の人たちがいました。中国人やベトナム人といった、アジアの学生と一緒に授業を受けていたのです。彼らは懸命に勉強していましたので、概して成績は良さそうでした。ただ、あまりに留学生の成績ばかりが良いと、日本人学生の立場がなくなってしまいます。したがって、彼らに負けないように、私たちもそれなりに勉強する必要がありました。
 しかし、私は疑問をもちました。このように、大学の成績という一つの評価基準にしたがって、他国の学生と競い、それに勝ったとして、果たしてそれで日本人としての面目が保たれたことになるのだろうか、という疑問です。
 これでは、グローバル競争と構図がほとんど一緒でしょう。グローバル人材として勝ち上がったところで、待っているのはさらなる競争、切りがありません。つまり、数値による客観的な評価とは無関係な、もっと地に足の着いた日本人としての自信を得たかったということです。
 そういうわけで、何か自分に日本人としての箔を付けようという浅薄な発想から、日本らしいことを始めたいと考えたのです。そのためには、弓道や茶道を始めるのもいいし、日本の古典を読み出しても良かったかもしれません。他にもいろいろな選択肢があったでしょう。
 しかしながら、ここで私が試みたのが、参拝という習慣でした。何ということはない、拝むだけなら容易なことだと思って始めたわけです。

 はじめは、鳥居をくぐるのを面倒に感じたり、神社に立ち寄るのを忘れてしまったりしていましたが、だんだんと慣れてきて、気がついたら無意識のうちに神社に足を運んでいくようになりました。さらには、参拝できない日が訪れると、翌日は何かわるいことが起きるんじゃないかと不安に思うようにもなり、とうとう旅行に行くときも、現地の神社の位置まで調べて宿を決めるという有り様になりました。まさに自分の生活習慣の中に、参拝は組み込まれていったのです。
 たった一年間続けたくらいで、日本人にとって宗教とはこういうものだとか、神道とはこういうものだとか、あまり大それたことは言えません。けれども、つい最近、こういう経験がありました。

 研究室の仲間が、日本らしさとは何だろうか、という疑念を抱いていたらしく、それについて話していたときのことです。
 日本というのは、中国文明が基盤にあって云々、仏教と儒教が混ざり合って云々、東洋と西洋が出会って云々。彼との話の内容は概ねこのような感じでしたが、ふと気づいたのが、日本らしさとは何であると、仲間はあれこれ考えているということでした。
 しかし、日本らしさとは、あれこれ考えるものではなく、私たちの暮らしに存在しているはずのもの。頭中で編み出せるようなものではなく、足下を見ればそこにあるものではないでしょうか。例えば、私の生活に織り込まれたお参りの習慣は、私から離れるべくもありません。国民性とはそういう類のものでしょう。
 この習慣を始める前は、留学生と自分を比較するのにあたり、客観的基準による優劣で考えようとしていましたが、それは自分の中に日本らしさが不在で、自信が持てなかったからなのかもしれません。私たちはこういう者である、という安定した自覚がなかったのです。
 日本の財界が、グローバルな市場でこぞって競おうとする一つの動機も、ここにあるのかもしれません。つまり、日本人らしい慣習の不在と、そこからくる不安によるということです。