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説明責任に振り回されないで

山口泰弘(35歳、東京都、サラリーマン)

 

 短期主義は、デフレマインドと相まって、目先の利益を求めて長期的課題のための投資を避ける傾向を助長し、それは我が国の平成期の停滞の理由でもあるとの指摘もあるが、短期主義は国民経済の停滞のみならず、個々の組織を疲弊させることになる。

 最近に和訳版が刊行されてよく読まれているジェリー・Z・ミュラー「測りすぎ」は、何事についても定量的評価を必要とする過剰な測定主義を戒めることを本筋としつつ短期主義が蔓延することで本末転倒な事態が各界で起きているとする。短期主義の下では、学校や企業と言ったあらゆる組織体が手っ取り早く成果を出すことを求める傾向に陥るが、これは、過剰に求められる説明責任に応えることが優先して求められることが背景にある。

 我々は民主主義を当然視しているが、その民主主義の原理である権力への監視、更にはその根底にある、皆が納得できる評価・説明を徹底すれば、このような透明性追求が、権力者の思惟を防ぐのに不可欠であるとして推奨されることになろう。だが、数値が分析的手法に使える一方で、多くの人が数値の意味・背景について思考停止に陥りやすいことを踏まえれば、定量的測定に基づいて説明責任を果たそうとすることで、かえって意味のない数値に踊らされる非生産的な結果となる。この点について、「測りすぎ」は、統一的な測定基準を押し付けることで、当該基準による望ましい数値結果を出そうとして本末転倒の行動が誘発され、時には改竄・不正も行われ、寧ろ説明責任を果たそうとすることが組織全体のパフォーマンスや士気を下げるとする。

 このような説明責任や透明性が追求される背景には、あらゆる組織・共同体において上位者・下位者間の不信が根強いことが挙げられるのではないか。これが国全体に及べば、政府と国民が双方を信用せず、国民統合を妨げられるので、そのような国が独立・反映することは難しいであろう。

 そこで、民主主義による統治を目指す限り、ナショナリズムによってこれを補完することが必要不可欠となるのではないか。ナショナリズムの温室は、性別、貧富等といった差や何らかの階級意識が個々人にあろうとも、同じ国民であるという意識がそれらを超えて存在することで、お互いを同胞として認め助け合えるという思想・発想である。少なくとも、政府・議会が専門技術的な政策的判断を行う間接民主制の下で、創意工夫を伴う国民経済の成長を実現するには、統治機構の政策的判断を国民が信頼し、統治機構が国民を信頼して自由な経済活動を認めることが必要であり、このような関係の基盤となるのがナショナリズムなのである。逆に、統治機構が外国勢力の走狗となったり、ナショナリズムを共有しない国籍のみの形式的な国民だらけとなれば、統治機構と国民の間の信頼関係を築くことが難しいであろう。

 ただ、このようなナショナリズムの内容は歴史や言語や文化や伝統といった人間の諸活動の蓄積への理解に基づくものであるから曖昧な概念とならざるを得ない。少なくとも定量的評価によって単純化して論じることは難しいし、国毎にナショナリズムを定量的に比較したり論じたりすることも難しい。結局、我々は、ナショナリズムのことも、それが支えてきた過去・現在・未来の国民とその諸活動の有機的集合体である国家も、複雑・不確実なものとして捕らえるしかない。

 そうなると、学校や企業の組織的活動を評価するために全てを数値化・定量化することは愚かであるし、国民経済の全てを一面的な数式で説明しようとする主流派経済学が国民経済の発展に寄与することもないであろう。奇しくもケインズのアニマル・スピリッツに通じるものだが、我々が富国強兵の道を歩むには、定量的評価の限界を知り、複雑なものを複雑なものとして捉え、不確実なものに向き合う不安と戦わなければならないのではないか。

 「測りすぎ」は、説明責任の行き過ぎを牽制する一冊であったが、ナショナリズムの意義を再考させる良書であった。