改題第9号(通巻第87号) 読者からの手紙

MMTと左右の論争をめぐって

 ある飲みの席で、興味深い話がありました。

 その要旨は、学歴社会を批判しても、その批判は必ず自分に返ってくるというものです。 一方で、高学歴の人間が「たとえ東大を出ていようと、役に立たない奴はいる。学歴なんて・・・」といっても、言い方が遠回しなだけで、自身の学歴を鼻にかけているように聞こえる。他方で、学歴の低い人がいっても、自身の学歴コンプレックスを拭おうとしているように聞こえる。このように、如何なる学歴批判も、本人の学歴に触れることで、効力を失ってしまうというのです。

 この話の面白さは、批評という行為の非常に厄介な問題を示唆しているという点にあるのでしょう。つまり、誰が何を批判して何を評価したところで、主張者の立場や過去、カテゴリーに言及することによって、たとえ正論であっても主張を無効にすることができてしまうのです。

 例えば、「人は顔じゃない」という言葉も、主張しているのがイケメンだったら説得力がないし、ブサイクだったら自分を慰めているように聞こえる。大事なのは外見だけじゃない、という真理は誰もが認めてはいるものの、実際に誰かが口にしてしまうと、言葉は意味を失ってしまうのです。

 だから、誰にも反論できないような批評をいうのは、とても難しい。それは、人間が何らかの過去をもち、何らかの立場に属している限り、逃れられない事実なのでしょう。
 もし、誰にも否定できないことが言えたら、それは批評というより、むしろ芸術とか、美の世界に関わってくるのだと思います。小林秀雄は、美には人を沈黙させる力がある、という言葉を残していますが、まさに批評の難しさを物語っています。
 

 最近、MMTをめぐり、左翼と右翼の間で何やら悶着があるようですが、この件も似た問題を孕んでいると言ってよいでしょう。「あいつがMMTを主張するのは、左翼だからだ。」欧米では、こんなふうにMMT推進論者が一蹴されているのかもしれません。
 MMTをいうのが、日本が保守で、欧米が左翼で、立場がねじれるということだと思います。一見するとこの問題は、左右を問わず純粋に社会科学の健全な理論を追求した結果、MMTを採用しているだけだ、という結論で収拾がつくように感じられます。
 ところが、実際の問題は、MMTに思想的バイアスが無いかどうかではなく、MMTをめぐる議論が、左右の思想上の対立の枠に押し込められているという現状にあるのでしょう。
 いくら少数の人間がMMTの思想的中立性を訴え続けたところで、左と右の不毛な対立それ自体が続く限り、理論の内容が緻密に検討されるような、建設的な議論が行われる望みは薄いと考えられます。
 したがって、MMTに大きな期待を抱くのは、経済学者としてはともかく、思想屋としては早計なのでしょう。もともと、政府が自国通貨建ての債務で破綻することはない、という理屈はわかっていたことです。

 ところで、私は、中野剛志『富国と強兵』を読んで、地政経済学という大きな理論に埋め込まれた状態からMMTを知ったわけですが、これに反論しようなんて思いもよらない。如何にしてこのような洞察を得たのか、ただ眼光紙背に徹するばかりです。どうしてここから、彼の過去とか立場に言及しようと思うでしょうか。
 彼の二十年以上にわたる知的探究の成果は、社会科学というよりむしろ、芸術作品に近いのかもしれません。そうして、無批判にMMTを受け入れてしまったわけですが、これは人を黙らせる美の力が作用しているというわけでしょうか。
 上手くは言えませんが、多くの人を説得するには、何かを極める必要がある。そして、実際に極めることによってのみ、誰にも反論できないような批評をいうことができる。それは、批評というよりむしろ、芸術に近い営みである。こういう人間の業のようなものに対する深い理解だけが、筋のとおった言論を可能にするのだと思います。

 

投稿者 : 

  • 佐々木広(22歳、神奈川県、学生)

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