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【公開 続き】クライテリオン3月号特集2鼎談 愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?

啓文社(編集用)

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表現者クライテリオンメールマガジン読者の皆様、こんにちは。

今回は特集鼎談(愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?)後半部分を公開いたします!

表現者クライテリオン創刊4周年記念シンポジウムのテーマでもある”「愛国」としての「反日」”。藤井編集長が前田日明氏、小幡敏氏を交えて真正面から語ります。是非ご一読ください!

 

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愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?

前田日明×
小幡 敏×
藤井 聡

(前回からの続き)

前田▼自分の小さい頃からテレビなんかで話題になったことを思い起こしてみても、今、藤井さんがおっしゃることは、まさにおっしゃる通りだと感じます。昭和四十年代、五十年代頃、マスメディアからはいつも、やれ核家族の時代だとか、世代間が断絶される時代だとか、日本人が本来大事にする「和」を切り刻もうとするメッセージばかりが溢れていました。昔からある伝統的なものを否定する反社会的、反権威的な主人公が賞賛されるなんていうのも多くあった。
 さらにいうと、かつては青少年たちには、ヌード写真のような性的刺激は可能な限り隠蔽されてきていた。ところが、いつの間にかもう何でもありになってしまって、今やネットを開けばアダルトビデオまで子供が簡単に見られるようになっている。世界の常識では「犯罪」と捉えられるような少女を対象にしたものまでもが普通に販売されている。そんなふうに、これでもかこれでもかと、日本のいろんなものをどんどん壊していくようなものが溢れている。なのに警察も文部科学省もそういうのを野放しです。もう考えられない状況です。
藤井▼だから僕は今、日本人として日本が恥ずかしいという気持ちが濃密にある。二十世紀後半くらい、僕が三十歳ぐらいまでの頃は、僕は日本人であることが誇らしく感じていた。欧米に住んだ機会がありましたが、彼らと付き合い、彼らに敬意を表しながらも、「日本人の道徳はお前たちには分からないような繊細なもので、惻隠の情なり忠義なりがあって、俺たちの文化は凄いんだ」という気分も濃密にあった……でもわずか二十年の間に日本は超絶に激しく堕落し、今は全くそう思えなくなってしまいました。今の日本人に惻隠の情や忠義を持っている人をほぼ見かけなくなったからです。
小幡▼僕は、思い返せばだいたい小学校の高学年の頃から日本社会や日本人が嫌になり始めました。特に問題だと思ったのは前田さんがおっしゃるように「悪いもの」が氾濫しているという点、そしてそれを放置する大人たちが許せなかった。それと同時に藤井先生がおっしゃったような「良いもの」がなくなっていったということの悪影響も深刻です。要するに我々の世代は我々日本人の共同性を信じさせてくれるような良質なものに触れる機会が全く失われてしまっています。大衆文化ですら劣化からは免れない。僕らの世代の流行歌というのは、好きな人には悪いですけど聴くべきものなんてほとんどない。そもそも、同世代ですら同じスポーツを見ず、同じ歌を聴かず、同じ小説を読まず、そんな環境が今は出来上がってしまっている中で、共時的に生きている、あるいは生きてきたという感覚すら奪われています。そして何より、ポケモンとかワンピースを見て育って、見るなとは言いませんが、それだけではたいしたものは育たないですよ。

「武」という暴力がなくなれば、人は畜生へと堕落する
藤井▼小幡さんの本のテーマの一つに広い意味での暴力をどう捉えるべきなのかという問題があります。「善のため」の暴力は「武」と呼ばれますが、今の日本社会には、武であろうが反社の暴力であろうが十把一絡げにしてとにかく「暴力は悪だ」という風潮が濃密にある。特にこの二十年、二十一世紀になってからは、その風潮がとてつもなく拡大していった。
 ですがそもそも、正しくないものはその性質上、正しいものを潰そうとする。悪は善を憎みますから必ず悪は善を攻撃する。そうである以上、正しいものを愛する人は、好むと好まざるとにかかわらず、悪と戦わざるを得なくなる。それは逃れ得ない宿命です。
 この議論はプラトンの対話編『国家』の一番のポイントの一つです。すなわち──(1)怪物(ヒュドラ)=欲望は哲人=理性を攻撃し陵辱しようとする、(2)だからそこで「戦い」がなければ理性=哲人は欲望=怪物に食われて欲望だけに支配されることになる、(3)だから一人一人の人格において理性を保ち続けるためには理性を守るために欲望(ヒュドラ)と闘う「武」が必要不可欠なんだ──という議論です。だから、人間が理性を持った人間になるためには、必ず、「武」すなわち、悪と闘う「暴力」が必要不可欠なわけです。
 にもかかわらず、今の日本のように武も含めて暴力を全て否定してしまえば、怪物=欲望は暴れ放題になり、人々は単なる野獣と化し、国家は単なる野蛮国家に堕落することになる。
 今の日本はまさにそういう状況に陥りつつあるわけです。
 ただ、暴力を全否定するというのは、小幡さんの本の中でも報告されているように、戦前からもあったようです。とはいえやはり戦後、その傾向がさらに加速し、二十一世紀になってその風潮がさらにさらに強くなっている。今や国軍どころか、ケンカもダメ、さらには「怒る」ということすらダメ、っていうことになってきている。これじゃぁ日本人は皆、早晩、私利私欲の塊の畜生に堕落することは必定です。
前田▼暴力は全部ダメだと言ったら日本古来の武道も全部ダメになってしまいますよね。昔、織田信長についていろいろと調べたことがあって、天下布武というのはどういう意味なんだろうと思ったら、当時の人には「武には七つの徳がある」といって、その武の七徳を天下に広げるんだというスローガンだというのですね。それが証拠に織田信長のやったことは武の七徳に基づいていて、例えば比叡山なんかは当時宗教の本山でありながら高利貸しで、京都山科一帯の酒造業者は高い税を付けられたとか、ありとあらゆる宗教者にはあるまじきことをやっていた、だから、それを正すというのが比叡山の焼き討ちの理由だったわけです。
藤井▼その暴力に徳や正義の理由があったわけで、それはやはり武力だった、というわけですね。
前田▼日本の格闘技も実はもともと全て武道なんです。武道というのは「道」がつくじゃないですか。もちろん正義というのは立場によって解釈が違ったりだとかするわけですが、そういうものについての子供たちへの教育というものがないですよね。単純に暴力はダメだとか注意するのすらハラスメントになるからダメだとか言い出したら、簡単なコミュニケーションすら取れないようになる。そうなれば日本社会がどんどん動脈硬化を起こしていきます。
小幡▼織田信長が武で七徳を示したという、そういう考え方が昔はある程度一般的にあって、例えば南北朝時代、南朝の北畠親房が著した『神皇正統記』の中には「剣は智恵の本源だ」と書いてあります。今の日本だと、武力や暴力といった「身体的なもの」と「智恵」を結びつける感覚は全くなくなってきた。世間では、武術家とか格闘家というものと知性とか理性というものは同じジャンルのものとはみなさない、というのが一般的になっています。非常に優れた知性の人がいたとしても、その人が肉体的にも同時に優れていたとしたら、どこかでバカにするような感覚が今の日本人たち、特にインテリの中にある。文武両道なんていうものは空言なんですね。だからこそ三島由紀夫などはあれほど明晰な理性を持ちながら、ボディビルなんかをやるとバカにされたわけです。マッチョはバカにされる運命が現代の日本の中にはどうしてもある。
 でも武と正義、この二つにはどうしても付き合わなければいけない。そうでなければ我々は獣になります。暴力を振るうから獣になるのではない、暴力というものとの真面目な付き合いを避けた時に初めて、人間は獣になってしまう。
藤井▼正義を護るために武が不可欠である以上、正義は武なくしては成立し得ないですからね。
小幡▼一方で武が暴走することも容易に考えられるので、武を司るものについては自らを律するために精神的な鍛練が必要になったり、向こう側に転落しないための超人的な努力も要求されたりする。その努力を「人間にはできやしないんだ」と放棄してしまったところに問題の端緒があって、我々は今やもうそれを完全に放棄してしまった。
 自衛隊でも、殴ったりすることは基本的にあり得ません。どんなに曲がったことをしたり上官に面と向かって反抗したとしても殴るということはない。殴ったら処分ですね。
藤井▼そういうことだと規律が守れなくなってしまっているのではないかと想像するのですが……。
小幡▼もちろんです。自衛隊は規律正しいように言われますが、私に言わせれば自衛隊に統率なんかありません。あるのはただ、会社員が首になりたくないから職務命令に従う時の服従と全く等価のものだけです。そうはいってもそれで軍隊が回るわけがありません。だから暴力をなくせという人は「背中で語れ」とか簡単に言うのですけれど、じゃあ現実にそれで上と下の間で心情的な指導ができているかというと全くできていない。それはみんな分かっているんですよ。だけど今の日本人は暴力行為を決して許さない。
前田▼よくアメリカの軍隊物の映画を観ていると、隊員がうまく動けない時に上官が罵声を浴びせたり、「腕立て伏せ何十回だ」とかあるじゃないですか。ああいうことは自衛隊もやっているのですか?
小幡▼かつては普通にありましたけど、それは下手をすれば処分されてもおかしくないことでしたね。
前田▼処分されるんですか?
小幡▼そうですね。腕立てだけで処分はよほどでない限りないかもしれませんが、訴えられたり見とがめられたら厄介なことになります。現に僕の同期も新隊員教育中に新入隊員の保護者から訴えがあって、異動させられました。ちなみに、こういう罰トレとしての腕立てなんかを自衛隊では「反省」と呼ぶんですが、最近は「反省」させちゃいけないということになってしまった。それじゃあ教育できないってことで、「反省」とは言いつつ筋トレの体裁をとるために教官も一緒になって腕立てしたりしている。もうどっちが反省しているのか分からない(笑)。
前田▼えーっ。
藤井▼僕の大学での体験もそうですし、おそらく前田さんがいた頃の新日本プロレスの道場とかUWF、RINGSの道場も同じだと思うのですけれど、新弟子というか若いヤツというのはロクでもないヤツがいるんですよ。だけどこっちは訓練を積んで知性と努力、徳といったものがあると認められて教える立場になっているわけです。だからロクでもないヤツに対して最初は優しく教えているだけじゃあ、できない事も当然いっぱいあって、そうなればじゃあ、そんな時にどうするかという問題が必ず起こる。その時、(言葉で注意するという程度のものも含めた)全ての暴力性を排除するとしたら、そういうロクでもないヤツを「是認」するしかないわけですよ。
 でもそういうロクでもないヤツらを是認してしまっていては、その組織は早晩死ぬしかなくなる。もし戦争をやっている時にそんなヤツを是認していては、そいつ一人のせいで隊が全員死んでしまうということすら起こる。
 前田さんだって若手格闘家に対して「あの試合はなんだ!」というのはあるじゃないですか。それは単に「野蛮な話」なのではない。それとは逆にむしろ「文明的」な行為ですらある。何といっても正義の実現を目指しているわけなんですから。だから「武」としてのある種の暴力性を全否定するという態度は、自衛隊員にせよ研究者にせよ格闘家にせよ「不真面目」だとしか言いようがないわけです。
 あらゆる暴力性を全否定する人間は一言でいって結局、全員クズなんです。
前田▼やっぱり本人も気付いていないようなギリギリの力を出させようと思うと、変な言い方ですけどある程度脅かして追い詰めるというのも、ある時には必要なんですよね。それによって大ケガをさせたりとかそういうのはもっての外ですけど、そうでなくとも確かに今はそういうのもやり難くなりましたよね。

「暴力を含めた身体的な肌の付き合い」がなくなったことが、
全ての問題の根源にある
小幡▼ちょっと視点を変えていうと、小さい時に暴力を経験しておくことは大事だと思うんですね。僕はまだ殴り合いのケンカを他愛のないレベルでしていたギリギリ最後の世代ではないかと思うのですが、僕なんかはその後世間一般から見たら教育水準の高いところに進むことになるわけです。中学受験をしていわゆる進学校へ行って、最終的には東大とかいうろくでもないところに入って、ということになると、殴り合うような経験をするのは小学校ぐらいしかない。だからその時に実際に肉体同士の付き合いをしておくというのは非常に貴重な経験だったと、今にして思います。それによってたぶんいろんなことを感じるし、考えるんですよ。「自分は肉体的には劣っている」と思う人もいるでしょう。そしてその時単純に、「ちくしょう。でも俺は勉強で見返してやるんだ」と思うかもしれない。要するに、自分の中のどこかに無意識にでも肉体に対する劣等感があるんですね。でも肉体に対する劣等感というのはそんなに悪いものではなくて、例えば今ここで前田さんという肉体の巨人を前にすると、僕の中で憧れがあるのですね。
藤井▼もちろん、そりゃ、そうですよね。
小幡▼大きい拳とか太い腕、相手を射るような眼を見ると「自分もそうなりたい」と、やっぱり思うわけですよ。だけどそういう感覚ってたぶん今の人はないと思うんですね。
藤井▼ないのかなあ……。
小幡▼持ちようがない。だから例えば官僚でも政治家でもなんでもいいですが、そういう文民エリートになる時に、どこか自分の中で肉体に対するコンプレックスを抱えている人と、全くそういうものを経験しないで単に肉体とか暴力というものが反知性的で野蛮で愚かなものだと観念だけで肉体をバカにしてやってきた人間とでは、全然あり方が違う。
藤井▼確かに、僕ら世代よりも下の知識人たちの中には、そういう暴力を全く経験したことのない奴がいますねぇ(苦笑)。そういう奴らにはもう、何を言っても伝わらない。やはり暴力性を含まない思想は、どうしても薄っぺらいものになるんでしょうね。
 特にコロナ問題ではそれを痛感しましたね。コロナという存在の中にある種の暴力性が宿っているわけで、その暴力性に対する対処において暴力性を含んだ思想が必ず求められる、にもかかわらず暴力性を持たない言論人たちは、結局コロナに対処できなくなって、その結果、正気を保っていられなくなる、という構図があったんでしょうね……よく分かります。
小幡▼僕の母方の祖父はシベリアに抑留されて帰ってきた田舎の人で、ただ、寡黙な人で自分からそういった経験の話は全くしなかったのですが、僕は自分の祖父が何をしてきたか知りたかったので小学生の時にそういう話を聞いたりしていました。教養は全くない人でしたけど、その言葉には重みがあったし、厳しさも優しさも本物だなと身体で感じたものです。何より、そこで語られるものにも、語る人にも、どこにも嘘がない、どこにもてらいがないということにどこか新鮮なものさえ感じました。父方の方は都市住民で教育水準も高いわけですが、幼いながらに、僕は前者を「本当」だと感じたんですね。もちろん、後者が悪人だというわけではありませんし、実際とてもよくしてくれた祖父でしたが、人間の生き方として僕が憧れるのは、シベリア帰りで、そのことをおくびにも出さない、一日に一箱も二箱も美味そうにマイセンを吸っている祖父の方だった。そしてその祖父が亡くなる前、僕を指して「あの子は小幡寄りの人間だというけど違う。わしらの側の人間なんだ」と言っていたのを伝え聞いて、非常に感動しました。
 翻って今の時代状況を考えたときに、身近に戦争に行った人だったり、土に根ざした生活者と交渉を持つ経験が、若い人に関してはほぼありません。都市生活者は特に厳しい。そうすると僕がアクセスできた経験というのは今の若い人は得ようと思っても得られない。
藤井▼そういう交流も含めた身体的な肌の付き合いが、日本社会から急速に蒸発してしまって、それが今、大きな問題をもたらしているんでしょうね。その点でいうと前田さんはモロにそういう体験の中で生きてこられたんですよね。
前田▼自分は昭和三十四年生まれですけれど、小学校に入った頃は戦争へ行って帰ってきた人たちが三十代後半から四十歳前後ですから、小学校、中学校はずっとそういった人たちが先生でしたよ。優しい人も厳しい人もいろいろいましたけれど、当時は一クラスが四十五人ぐらいで、先生はテストだなんだでてんてこ舞いだったと思うのですけれど、夏休みになったら兼業農家をやってる先生が「家に遊びに来い」と言って自分のクラスの子供を何十人も泊まらせたりとか、そんなこともやっていましたよね。
 でも厳しいのは厳しくて、宿題を忘れたりするとほっぺたにビンタが飛んでくる。女の子にもやってましたから。先生と生徒とか友だち同士とか、すごく距離が近かったですよね。
藤井▼そうですね。本当に昔は人と人の付き合いに熱があった。

損得でない正邪、善悪の論理を持つのが人間の条件。
日本人は今、それを失いつつある
前田▼テレビとかなんとかでは必ず戦争を振り返るようなドキュメンタリー番組や映画やドラマがあって、まあ「日本のアジア侵略は悪い」みたいなことに収斂するようなものはありましたけど、なかにはいいものもありました。
 自分の好きな映画で『拝啓天皇陛下様』といって渥美清さんが主演なんですけど「戦前の日本人ってこんなに素朴な人たちだったんですよ」っていうのが感じられるんですよ。やれ侵略だ、虐殺だっていうのじゃなくて、こういった市井にいる普通の人が戦争へ行っていたんだなと、子供心に親近感を持っていました。
藤井▼どんな映画だったんですか?
前田▼この映画は、棟田博さんという方が書かれた小説がもとになって映画化されたらしいのですけど、主人公のヤマショー(山田正助)は勉強もできなくてただ力持ちで、すごく手が早くて暴力的でいろいろ問題を起こしたりするんです。
藤井▼身体性の塊のような方だったわけですね。
前田▼そんなヤマショーに、彼の部隊の隊長が「文字を知らないというのは人生で最大の不幸だ」と言って彼に、元小学校の先生だった二等兵を連れてきて先生にして文字を教えてやるんですね。そもそもその隊長は「軍隊に入ったからには真っ当な日本男子として社会に出られるようにちゃんとやってやろう」と思っているんです。ヤマショーはそんな隊長をものすごく慕う。だから除隊の期日が近づくと軍隊に留まりたいから、ある日意を決して天皇陛下に手紙を書こうとするんです。
藤井▼なるほど。天皇陛下が素朴に一番偉い人だから、頼んだらそうしてくれるんじゃないかと思っていた、ということですね。
前田▼そうなんです。あの映画は本当に泣けます。名作ですね。
藤井▼「偉い人がいる」っていう感覚も、ある種の身体的感覚ですね。例えば父の威厳を感ずるというのはもろ身体的な感覚ですし、そこに暴力性が潜んでいないことには威厳なんて絶対に出てこない。そしてその「偉い」という感覚の延長に、天皇陛下の崇高さの概念がある。そういう意味で、今の天皇制は、日本人が身体性を取り戻すための最後の砦ともいいうる存在、ですね。
 しかも、その隊長とヤマショーの関係も身体的関係そのものですよね。昔はそういう物語ですら、見ている人々に身体性を感じさせていたんでしょうね。
前田▼メディアでもそういう情操教育的な作品の放映というのが少なくなりましたね。
藤井▼損得以外の正邪、善悪の論理というものがあるんだということが、昔は例えばそんな映画を観たりすることを通して、普通に暮らしているだけで自然に学べましたよね。「それがないともう人じゃないぞ」っていう、人として何よりも大切なものがある、ということが、昔は繰り返し描写されていた。ところがそれが本当に今、蒸発し続けていますね……。
小幡▼ヤクザ映画だったり、もう寅さんでもいいですけど、そこで感じられていたものすら今ではとても汲み取れない。そういうものを失った人がどうなるかということで一つ例を挙げますと、私の友人で東大法学部を出て弁護士をやっているヤツがいますが、そいつとこの前飲みながら話していて、安全保障の話になったんですね。それでまあ、幼稚なたとえでお恥ずかしいですけど、「例えば北朝鮮が核ミサイルを撃ち込んできたらお前はどうなんだ」と言うと、そいつは子供が二人もいる所帯持ちなんですが「何とも思わない」と言うんですね。「一瞬でみんなが消えるのだったらそれは特別に悔しいとも何とも思わない」と言う。
 これはもう新しい人類ですよね。これでは全く話が通じない。
 そいつは取り立てて変でも嫌なヤツでもなくて、むしろ気の良いヤツなんですが、そのような決定的な断絶があって、同じ気持ちを全く持てないとなると、例えば同じ日本人として一緒に戦争に行けるのかといっても、もう行けないですよ。
 ただしこれは彼のような東大出のインテリに特有のことなのかといえば決してそうではない。世間一般のあらゆる業界、業種の中にそういう人たちはいるし、自衛官の中にすら確実にいる。自衛官にも我々と全く違う感覚を持っていて、とても日本のために一緒に戦えるとは思えない人間がたくさんいます。
 前田さんの本のタイトルの『日本人はもっと幸せになっていいはずだ』というのは私もそう思いますが、ではその日本人というものの輪郭が今はどういうふうになっているのかというと、これは非常に怪しくなってきている。恃みにできなくなってきていると思います。十年後、二十年後に「お前と俺は同じ日本人だ」と認められるような仲間が一体どれだけ残っているかということ、私は非常にそれを心配しているわけです。

「人でなし」を「人」にすることは可能なのか?
藤井▼たぶん前田さんは新日本の道場時代からOUTSIDERをやられている今に至るまで、常にそういったことを考えてこられたのではないかと思うのですね。前田さんのリングをめぐる(フロント、すなわち事務方も含めた)戦いを拝見していて僕はいつも、人としての上下や善悪がなくて何かやっていても仕方がないだろうという武の感覚があったんだろうと感じていました。
前田▼そうですね。自分も遅い結婚をして子供を授かって、その子を病院で初めて抱いた時に、昔UWFで練習をしていて亡くなった選手のことを思い出したのですね。集中治療室でもう手が固まっているのを、親御さんに「彼はあなたのファンでね、がんばってUWFに入ったんです。申し訳ないけどせめて手を組んでやってくれませんか」と言われて、やろうとしたんだけどもう手が死後硬直していて組めないんですよね。そのシーンをすごく思い出しました。
 自分の息子が生まれたことに感動したんですけど、その時に「俺は一体なんという酷いことをあの親御さんに対してしたのだろう……何か報いるようなことができないだろうか」とあの時に思って……それで自分の息子のことで困っている親御さんたちの助けになるように格闘技を通じて更生させるようなことをやったらいいんじゃないかなということでOUTSIDERを始めたんですね。
藤井▼アウトサイダー(はぐれ者)と言われるような子たちに格闘技という場を与えることで更生させようというわけですね、実際に教育効果というのは肌で感じられましたか?
前田▼そうですね。試合ではだいたい同じレベルのヤツを合わせて試合に出すんですけど、それぞれ応援団をいっぱい連れてきてその応援団の前で大言壮語をしてパタンと負けてそれでもう出てこないヤツもいます。だけど何回も何回も勝つまで出てくるヤツもいるんですね。そういうヤツは十人のうちの三人か四人ぐらいですかね。最初は「練習なんか必要ないですよ、勝てますから」とか言って、それで負けたり、バカな試合をしてやっとこさ勝ったりした試合が続くと、少しずつ身体が変わってくるんです。「やっていない」と言いながら練習をするようになって、それで夜の街に出なくなるんですよ。
藤井▼ある種の「修身」ですね。
前田▼努力をするために今まで余計なことをしていた時間がどんどん削られていくんですね。そうやっていくうちに、こっちのアドヴァイスに全然耳を傾けなかったような奴でも、素直に話を聞くようになって、「次はどうしたらいいですか」と前向きに言うようになってくる。そういう変化は嬉しいですよね。それに伴って、最初はもうどうしようもなかった顔付きとか目つきがだんだんと普通の顔になってきます。
藤井▼先ほど小幡さんがおっしゃった友人の弁護士の方というのも、我々の秩序の外にいるという意味ではアウトサイダーですよね。だけど前田さんがおっしゃったように、アウトサイダーも教育の機会を与えれば七割はダメなままかもしれないけれど三割は更生するかもしれない。そうすると小幡さんの友人のような方々を更生するプログラムというものも存在はするのだろうと思うのですね。僕の直感でいうと、三十歳ぐらいならギリギリいけるのではないかと……大学では十八歳から教えて研究室に入るのは二十二歳。そこから二十四、二十五歳ぐらいの子たちの面倒を濃密に見てきたイメージだと、そのくらいの年齢の子供たちなら、その数年の間に、「人間の形」に近づけるような教育は可能だと思います。
 ただ最近はハラスメントだなんだというのがあって、教育がどんどん難しくなってきている。若い子たちも、筋が通らないから叱られる、なんて経験を全くしていない子もいたりしますから、そうなると、いくら研究室という濃密な教育の場でも教育が難しくなる。ちょうどリングに上げる機会を提供しても更正できないアウトサイダーがいるのと一緒ですね……。
前田▼今の若い人たちはどうしちゃったんでしょうね。
小幡▼人は、自分の身に危険というか、圧力、迫るものを感じると全身の五官を働かせて安全確保のための情報を取りに行こうとするじゃないですか。情報というのは、ごく卑近な場面では上司、先輩の機嫌だったり、あるいは飛んでくる拳だったりもするわけですけど、そういう時に人間は飛躍的に成長できると思うのですが、今はそういった状況がなくなってしまいました。ちょっと殴れば簡単に教育ってできる、ってこともたくさんあるのに……。
前田▼そうです、そうです。
藤井▼僕は教育者として殴ることを完全に阻止されていたのでそれはできませんでしたが、本当なら一回でも殴られると記憶に残りますよね。殴ったことも殴られたこともよく覚えていますよ。
小幡▼僕は自分のやったことを美化するつもりはないですけれど、自衛隊の新隊員教育でも厳しく接していました。たまたま九州の湯布院駐屯地で再会した元教え子がいて、そいつは一番やっちゃってた子なんですね。自分でもちょっとやりすぎたかなと思っていたので「あの時は悪かったな」と言ったのですが、その子は全然そんなことは言わなくて「あの時に全力でやってくれたので今は本当に助かっています。ありがとうございました」ってすごくいい顔をして言ってくれたんです。初めは何をやらせても手を抜く奴でしたけれども、その時も隊員クラブで先輩たちの間を甲斐甲斐しく立ち回って、先輩連中からも可愛がられているようでしたし、そういうふうに変われたことに自信を持っているように見えて大変嬉しかったのを覚えています。
藤井▼意地悪でやっていたのなら別ですけど、本当の義憤がそこにあるなら、ある種の本気の証でもあるので、その本気さこそが意味を持つことがありますよね。
小幡▼今の日本では本当に肌の触れ合う教育ができる公共の場というのはなかなかないでしょう。

身体性の復活が日本の復活につながる
藤井▼身体性というのは本当に重要なポイントで、抱きしめてあげるだけで絶大な効果を持つことがありますからね。友人であろうが子供であろうが、もちろん女性であろうが。百万言を費やしてもどうにもならないことが一回しっかり抱きしめるだけで心が通じ合えたりする。それが時に殴り合うことであったりするわけです。思想的にはこういうことを「身体性の復活」といいますが、これを言葉で整理をしても意味がなくて、本当に身体性を復活しないとダメです。
小幡▼今は肌と肌が触れる経験すらほとんどないですからね。以前中国の南方だったと思いますが、儒教の教えを再興しようという活動があって、その中で、名前は正確に覚えておりませんけども、洗脚礼のようなものがあるんですね。日本でいう母の日みたいな機会に年老いた親御さんの脚を子供に洗わせるのですが、それだけで若者たちが泣き出すといいます。かつての肌と肌が触れ合う感覚を思い出してボロボロ泣いちゃうんですよ。そして、それだけで破綻していた家族関係が復活する──これはちょっと運動として美談にされてしまっているところもあるかもしれませんが、僕はそういうものにリアリティを感じるし、それほど我々は身体的な接触を失ってきているのだなと思います。そういう意味では身体的な接触の希薄化も日本に限った話ではないですが、やはり外国人と付き合っていると、こういうことに関して日本はやはり飛びぬけたところがある。
藤井▼だから、我々の日常の中でも何とか身体性を復活していくことは大切ですね。例えば学生に「大丈夫か」と言って肩にちょっと触れるだけでもいいし、一緒に飲みに行くのも重要ですよね。怒りを見せるだけでも意味がある。怒りというのはある種、人肌ではないですけれども圧力というか暴力性の一種ですからね。一緒に笑うこと、つまり喜怒哀楽を一緒に過ごすということも単なる理屈の情報交換ではない一種の身体性だといえるでしょう。僕らはリングで格闘はできないですけれども、そういう普通の職場だとか、学校とかでも、身体性的な振る舞いをできる範囲で混入していくことはできるはずです。そうやって今の日本全体の風潮に対する「反日」として抗いつつ身体性を復活していくことが、迂遠ではあるけれど、愛国のために今、成すべき第一歩なのだろうと思います。
 そういう意味で、学者と元自衛官と格闘家が鼎談した、っていうこと自体、意味があったといえそうですね(笑)。今日はありがとうございました。
前田・小幡▼ありがとうございました。

、彼らと会話すれば、日本人の学生なんかとは比べものにならないくらい、国家、公益、そして、公に貢献せねばならぬという概念を圧倒的に持っていることがよく分かります。

 今の日本社会では、社会の中でもメディアの中でも日常の中でも、国家や公益、さらには伝統という概念はまるでゴキブリのように、見つければ殺虫剤でスグに退治するように、探し出しては潰すという暴挙を繰り返し続けている。それがこの戦後七十年であって、その結果、日本人はますます人間あらざる野蛮人に堕落していったわけです。さらにいうと、そういう、公益や伝統という概念を蒸発させる努力は、明治維新の頃から繰り返されてきている。例えば明治初期には「日本語を止めて全部英語にしよう」なんていう暴論もあったほどです。つまり明治初期からこの方、この近現代の百五十年にわたってそんな乱痴気騒ぎを繰り返してきたわけで、その結果、日本の社会は根底から溶解し、日本人は文明人になるどころかますます野蛮人化し、今日のあらゆる領域における腐敗を生み出しているわけです。

(『表現者クライテリオン』2022年3月号より)

 

 

他の連載などは『表現者クライテリオン』2022年3号にて

『表現者クライテリオン』2022年3月号 「皇室論 俗悪なるものへの最後の”反(アンチ)”」
https://the-criterion.jp/backnumber/100_202203/

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