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【書評】『唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか』岸田秀著

篠崎奏平

篠崎奏平

隠蔽体質の克服は可能であるか

 岸田は「人間とは本能が壊れて幻想の中に迷い込んだ動物」であるとする唯幻論を提唱したことで知られているが、本書は筆者の人生を叙述しながら岸田がいかにして唯幻論を提唱するに至ったかを記したものである。筆者にとって最も手応えのある実例が示されることによって唯幻論という思想の輪郭がよりはっきりと見えてくる。

 筆者の人生と言っても、その大部分は彼と母との関係性の話である。簡素にまとめてしまえば母の筆者に対する態度は精神的虐待であった。筆者は実質養子であり、母は自身が経営する劇場を筆者に継がせようと躍起になっていたようである。母は筆者のことを跡取りという道具としてしか見ておらず「個人としてのわたし(=筆者)に関心」がなかったと筆者自身が書いている。それでも子供にとって親は世界の全てを握っているので、子はどのような母であってもそれが良き母であるという幻想を抱く。こうして良き母が強いてくる物語に適応しなければならないという外的自己と、母の支配が苦しいという内的自己が分裂し、筆者は強迫性障害を患うことになる。この障害を克服すべく岸田が必要とした思想こそが唯幻論であった。すなわちどのような幻想(=物語)を抱くかによってその人物の精神のあり方が決定されるのである。

 唯幻論の真髄は個人の人生に当てはまるだけでなく、共同体の運命にも相似的に適応されるところにある。国家や民族にも固有の幻想(=歴史)が存在し、その幻想が共同体の運命を決定するというのである。日本という国は白村江の戦いでの敗北を隠蔽することで成立した国であり、事実を物語で隠蔽するという体質を根幹として出来した。この隠蔽体質は明治・昭和における日本軍にも見事に引き継がれており、個々の戦いに敗北する度にその戦術的な失敗を隠蔽しながら敗戦へと突き進んでいった。そのために死なずに済んだはずの日本人が相当数亡くなり、彼らは軍が抱いた幻想によって虐待されていたと言うことができるだろう。

 しかしこの隠蔽体質は現在の日本においても根深い問題である。戦前の日本は全て間違っていて、清く正しい民主主義国家であるアメリカが正しかったのだという戦後史観は歪んだ事実認識そのものであろう。我々は今もなお日本が抱く幻想に物語を強いられ、虐待されている。

 岸田は唯幻論を通して自身が抱かされた幻想と徹底的に向き合い続けることで自殺をすることなく生き残ることができたようである。ならば日本においても解決法は同様であるはずだ。抱かされた幻想そのものを変えることはできないが、幻想との付き合い方を調整することは可能である。確かに戦前の日本は愚かであったかもしれないが、戦いの根本的な動機は故郷たる日本を守りたいという単純明快な魂ではなかったのか。幻想を紐解くことは我々に必然とそれ以外との区別を与えるだろう。今我々は必然としての歴史を肯定しなければならない。過去(=内的自己)を肯定できない存在が鬱病を患うのは当然の帰結である。

 

篠崎奏平 (『表現者クライテリオン』2019年9月号より)

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