『日本人とリズム感 「拍」をめぐる日本文化論』 評者:篠崎奏平 リズム感をめぐる安心の在り処 音楽は国境を越えうるか、というありきたりな問題は実は複雑に入り組んでいる。今となっては我々はブラック・ミュージックにおいてさえ本場の人間と同じようにリズムに乗ることが可能となった。そしてそれは同時に日本古来のリズム感が失われつつあることを示している。ここで疑問が生じる。我々はファンクのリズムに「安心感」を覚えるだろうか。もし覚えられないのだとしたら、日本人は古来盆踊りの中で感じていたような安心感を失ったのかもしれない。 著者は日本人が安心感を覚えるリズムの在り処を生き方、あるいは文化のあり方に即して論じる。皆でリズムを整えながら下を向き、後ずさりしながら田植えや耕起に励むことから文化を形成してきた農耕民族である日本人にとっては、表拍に合わせて手拍子をとるようなリズムが自ずと馴染む。対して、行動の読めない獲物に合わせて勢いよく飛び出していかなければならない狩猟民族である西洋人、アフリカ人にとっては、弱拍を契機として先へと広がっていくようなリズムが馴染むというのである。 稲作作業の中で人々は私もあなたも同じ場を共有しているという意識を持つ。この場の意識が日本の音楽において度々表現されていることを指摘し、本書はそれを「ソ」なる概念によって説明する。「コソアド言葉」において、「コ」「ア」がそれぞれ距離的な把握で理解出来るのに対して「ソ」だけが独特の位置を占めることに着目し、「『ソ』が日本的なリズムをつく」ったというのである。本書では度々英語が登場するにも関わらず、何故か指摘されないことであるが、「ソ」の役割は英語においてitが担っていると考えられる。"it is rain."と言った時、うつろいゆく「場」そのものが主語となっている。「ソ」は場そのものに源泉を持つのである。 近代に入ってS・フロイト等によってit=esは重要な概念として考察されるが、神を持たない日本人は元々「ソ」=場の中でモノとモノが関係することの喜びを生きる軸としていた。それが農耕文化に根源を持つのであるとしたら、同じ根源を持つ生き方とリズム感は結びついているということになる。跳躍して先へ進んでいく西洋的なリズムではなく、その場の中で同じリズムに沿って進んでいく盆踊りに見られるようなリズムにこそ、日本人が安心感を覚えてきたということは必然であった。そこでは生き方とリズム感が合致していたのである。 現在我々は本書で言われる欧米的な弱拍のリズムにこそ親しみを感じる。日本的なリズム感は失われたかのようである。しかし、日本人が欧米的な音楽に安心感、すなわち生き方とリズム感の合致を覚えることがあるだろうか。もしかするとこの問いを掲げなければならないこと自体、それが日本人が日本人であることの証なのかもしれない。音楽はこれからも国境を越え続けるだろう。だが少なくともこれまで、日本人は自らの生き方とリズム感を内包した日本語とともに在り続けたのである。 (『表現者クライテリオン』2019年9月号より)
篠崎奏平:93年東京都生まれ。日本大学芸術学部卒業。音楽家。ソロ・ユニット、FLATPLAYFLATPLAY名義で活動。制作ジャンルはミニマル・テクノ、ディープ・ハウス、ノイズ・ミュージック等。音源作品に『First Extended Play』。
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