【浜崎洋介】自信と充実について――持続としての時間

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 前回のメルマガでは、あれかこれかを決定する際に聞こえてくる「過去からの声」、これを「クライテリオン」の手触りとして述べておきました。また、その「過去からの声」に従って一歩を踏み出すこと――過去との間に持続的な一貫性を担保すること――、これが、人に自信と充実を与えるのだということについても触れておきました。

 では、なぜ過去の声を聴きながら、自らの生き方に筋を通すことが、人に自信と充実を与えることができるのか。
 それは、たとえば、私たちが、ときに小説や映画の主人公に魅かれるときの感覚を考えてもらえれば分かりやすい(最近では、藤井先生から勧められた『闇金ウシジマくん』がヒットでしたが、他にもイーストウッド映画の主人公などが分かりやすい)。彼らは、たとえ、その人生が失敗と挫折に彩られていても、自分の人生を取り返しのきく「もの」とは考えていません。ということは、自分の人生が交換可能なものではなく、一回限りの、分割のできない「全体」であることを無意識にでも知っているということです。

 言ってみれば、それは過去―現在―未来の時間性を、分割のできる量(空間的把握)ではなく、緊密に結びついた分割のできない質として直感していることをも意味しています。それを、ベルグソンなら「純粋持続」と言ったかもしれませんし、ハイデガーなら「時熟」と呼んだかもしれませんが、いずれにせよ、その感覚は、「人生はやり直しのきくものだ」とか、「人の可能性は無限大だ」とかいった甘言からは無限に遠いものです。
 しかし、面白いのは、この「不自由」を引き受けたところに、ベルグソンは「真の自由」を見出し、ハイデガーは実存の「本来性」を見出しているということです。

 簡単な例を出しておきましょう。たとえば、時間芸術としての音楽です。
 私たちは、そのメロディとリズムの内側にいない限り、音楽を楽しむことはできません。つまり、その過去―現在―未来の持続的流れのなかに身を浸さない限り、それを味わうことができないのだということです。そして、その持続感が強ければ強いほど、私たちは、その音の流れを取り換え可能なものとしては考えられなくなるでしょう。いや、むしろ「この流れでしかありえない!」という、音と音との間の強固な結びつきに驚かされながらも、しかし、それを「強いられている」とか、「不自由だ」とは感じないのです。

 けれども、一度、音楽の「味わい」の外側に立ってみれば、それは分割のできる音符の羅列でしかありません。いくら考えてみたところで、ドとレとミの間には、それが絶対に結びつかなければならない論理的必然性はない。とすれば、それは、いくらでも取り換え可能な「もの」であるがゆえに、「選択可能性は無限大だ」とも思えてくるのです。

 おそらく、ここから引き出せる結論は二つあります。一つは、だから、時間を感受する「直感」と、空間を分析をする「知性」とは、その性格(ヒューモア)を違えているということ。そして、もう一つは、だから、自分自身の人生の「全体」を「悔恨」なく――取り換えのきくものとしてではなく――生きようとすれば、その外側に立って、それを分析的に眺める「知性」より以上に、その内側に立って、その流れを、つまり過去の全体を受け止めてみせる「直感」が必要になってくるということです。

 ただ、それなら、次のことも同時に言えはしないでしょうか。まさに音楽と同じように、「今、ここ」を生きる「この私」のなかに一つのメロディとリズムを聴くことができるようになるのなら、まさに、その必然感によって、他者との比較(空間的対比)を克服することができるようになるのだと。実際、好みの違いを云々することはあっても、バッハとベートーベンとドビュッシー、――必要なら、そこにシェーンベルクを加えても構いません――どの音楽が優れているのかを云々することは、ほとんど意味がないでしょう。

 そして、そんな風にして比較を相対化することができるのなら、人はまた、「直感」を磨くことで、要らぬ優越感や劣等感、またそこからもたらされる嫉妬や焦燥や不安からも自由になることができるとは言えないでしょうか。つまりは、比較する「知性」によってもたらされる負の感情に対して、「それは、それ」と、ノンシャランと構えながら、今、ここで与えられている自分の人生に真剣に向き合うことができるようになるのだということです。
 ここまでくれば、なぜ私が、「過去からの声」に耳を傾けることによって、人は自信と充実を得ることができるのだと言っているのかは、もうお分かりでしょう。

 そういえば、禅宗の教えに「随処に主となれば、立処皆真なり」、という言葉がありますが、さすがは「煩悩」からの自由を考え抜いた仏教の言葉だというべきでしょうか。それは、ベルグソンもハイデガーも必要とせずに、人の「真理」がどこにあるのかを言い当てています。つまりは、「与えられた処(流れ)に随って、それを主体的に引き受ければ、その立っている場所が、そのまま真理(その人の自然)になる」ということです。

 さて、三回にわたって、「クライテリオン」の手触りについて、ある程度まで抽象的な議論を展開してきたわけですが、次回以降は、ここで語ってきたことを応用しながら、もう少し自由に、身近な話題にも触れていくことができればと考えています。

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