【浜崎洋介】循環的、運動的――「直感」と「解釈」の関係について

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 前回、これからは、もう少し身近な話題にも触れていくつもりだと書いたのですが、正直言うと、この一週間、そういえば、初回のメルマガで振っておいた、「なぜ『文芸批評』などという営みから、小林秀雄や福田恆存などの『保守』の言論人が多く出て来たのか」という問いにまだ答えていないではないか! などという、ハッキリ言って他人にはどうでもよいような焦燥と反省に駆られておりました(笑)。でも、そういう細かいところが、私の「性格」(ヒューモア)なんでしょうね。仕方ありません。

 ということで、しつこいようですが、前回に引き続き今回もまた、もう少しだけ原則的な話をさせていただければと思っております。お付き合い願えれば幸いです。

 前回のメルマガでは、「直感」を磨くことによって時間―歴史の持続を引き受け、それが人に「自信」と「充実」を与えるのだということについて述べておきました。
 では、その「直感」は、どのように「文芸批評」(作品解釈)と関係しているのか。
それを考える際にヒントとなるのが、実は、私たちが日常的に経験している、人に「惚れる」という経験です(精神分析の用語では「転移」と言います)。

 具体的にいましょう。たとえば、ドストエフスキーの全集を読み切って、その全てを合理的に解釈した後に、ドストエフスキーに「惚れる」などということはあり得るでしょうか。事実は、むしろ逆で、まずドストエフスキーの一冊(短い場合では一ページ、一フレーズ)に出会い、わけも分からず魅入られ、その出会いが自分にとって何であったのかを確かめようとするかのように、私たちは、その後に全集などを繙いていくのではないでしょうか。

 しかし、これは何も作家との出会いに限りません。もっと身近な例で言えば、恋人や友人関係、あるいは師弟関係の場合でも、同じことが言えます。
 たとえば師弟関係。弟子が、師匠の言動を正確に理解してから、その人を師とするなどということはあり得ないでしょう。それとは反対に、まず目の前の人間に対する飛躍的な「惚れ」の後に、ようやく弟子は、その人の言動を解釈しようと努力しはじめるのです。(その意味で言えば、授業評価シートなどという「民主」的な代物は、師弟関係を育てようとする場――大学など――では「反教育」的にしか作用しません)。

 とすれば、まず、他者との出会いは、「合理的解釈」などではなく、飛躍的で直感的な「惚れ」からはじまっているといった方が正しい。つまり、私たちは、解釈してから惚れる(直感する)のではなく、惚れて(直感して)から解釈しているのだということです。そして、そんな解釈によって、私たちは、再び自分自身の直感に近づこうとするのです。

 ハイデガーなら、それを、「先了解」(直感)と「解釈」(分析)の「解釈学的循環」と呼んだかもしれませんし、ベンヤミンなら、この循環を加速させる仕事のことを「翻訳者の使命」と呼んだのかもしれません。が、いずれにしろ、その「循環」それ自体が、私と他者との出会いを可能にし、育んでいるのだということに違いはありません。

 しかし、ここで重要なのは、その「循環」によって、他者との関係を深めていけばいくほど――つまり、その関係が取り換え不可能になっていけばいくほど――、私たちは、他者に対して単に「客観的」であることができなくなっていくという事実です。なぜなら、その他者解釈のためには、それに惚れ込んでいる私を語らざるを得ず、そんな私を反省しようとすれば、他者解釈を媒介とせざるを得なくなるからです。
 この循環的過程を、何かスタティックな認識図式に落とすことはできません。それは、飽くまで、自己と他者との間での実践的な「運動」として生きられるしかないものとしてあります。

 しかし、だとすれば、「文芸批評」の極意を語って、なぜ小林秀雄が次のように言わなければならなかったのかも腑に落とせるのではないでしょうか。小林は言いました、「人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。〔中略〕批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないか!」(「様々なる意匠」昭和四年)と。

 前回も書いたように、「直感」が過去との一貫性からもたらされるのだとすれば、より深く「過去からの声」を聴くことのできる者が、より深く他者に「惚れる」(直感できる)ことができるのだということにもなります。つまり、「過去」を自覚すればするほど、他者に対して、より深く〈循環的―運動的〉になっていくのです。

 そして、この国の「批評家」たち――小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、福田恆存、三島由紀夫(批評家としての)、江藤淳、そして西部邁も――、多かれ少なかれ、そのことを知っていました。それゆえ「批評」は、単なる研究(自己なき客観)にも、単なる印象(他者なき主観)にも還元されずに、近代日本において、独特の循環性を担保し得たのではないでしょうか。
 言い換えれば、この国の「保守」的な「文芸批評家」たちが、にもかかわらず、活発な運動性を維持し得たのは、この「惚れ」と「解釈」とが「一つの事であって二つの事ではない」ことへの強烈な自覚があったからだということです。

 さて、来週に語ることはもう予告しないでおきます(笑)。しかし、突然の米朝会談の決定やら、森友問題の新展開など話題は盛りだくさんですが、つくづく未来は予測できません。来週は来週で、この話に接続できることを考えてみたいと思います。

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