【川端祐一郎】能力とは何か——自己責任論と古文・漢文教育をめぐって

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

1 「能力」は自分のものか

せっかくのメルマガなので、今回もネット上の話題に触れてみましょう。2月末頃、ある落語家の方がツイッターで、

「世界中が憧れるこの日本で『貧困問題』などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ。この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に『自分のせい』なのだ」(リンク

とつぶやいたのが、少し炎上していました。
また先週は、ある通販会社の役員が、「給与所得の上位約4%に過ぎない少数の高所得者が、所得税総額の約50%を納めている」というニュースに触れて、「誰か、高額納税者党を作ってほしい。少数派を多数派が弾圧する衆愚主義じゃないか。」(リンク)とつぶやいたのが炎上していましたが、この方はかつて、

「本人がコントロール可能な要素が1%でもあれば、他人のせいにしてるヒマがあれば、Focus on what you can control!はいつだって間違いではない。生活苦で自殺するくらいなら、役所の窓口に行くのも本人の自己責任だし」(リンク

と述べておられたのでした。
これらはごくありきたりな、いわゆる「自己責任論」というやつで、特に珍しい発言ではありません。貧困や経済格差についての現状認識が甘いとか、貧困の背景には生まれ落ちた環境など本人の意思ではどうしようもない要因が多数あるのだといった批判は、既に行われたのでしょう。

自己責任論についてはそれ以外にも色々な問題を指摘することができますが、こうした弱者に関する自己責任論と裏表の関係にあるものとして、強者(社会的成功者)の「能力」がその個人に属するものと考えられがちである点についても私は気になります。

社会的に成功するために必要な資質(知性、運動神経、笑いのセンス等)が、個人が生まれつき持っている才能や、その人自身の努力抜きに生まれないものであることは確かでしょう。しかし同時に、能力には「社会的に作り上げられる」面もあります。社会的に成功している強者が、「自分の力で成功した」と偉そうに言えるかどうか、怪しいところもあるのです。

能力が「社会的に作り上げられる」ということには2つの意味があります。
1つはもちろん、教育をはじめとする「他者からの支援」によって、能力は鍛え上げられるものだということです。例えば、どんなに有能な経営者や学者であっても、学校教育の制度がこの世に存在しなければ、その能力を手にするのに非常に大きな苦労を必要としたはずです。

もう1つの意味は、「能力」の何たるかはそもそも社会的関係の中で定義されるものだということです。たしか昔、マイケル・サンデル教授の『白熱教室』でも論じられていたと思いますが、社会的に成功している人の心身の性質そのものは生まれ持ったものであるとしても、それが「能力」として評価してもらえる時代・社会に生まれ落ちたのは偶然であることを考えると、「運」によって得られた環境のおかげで成功しているとも言えるわけです。

例えば、ビジネスマンとして何か良いサービスを考える能力があったとして、そのサービスが必要とされる時代や社会に生まれなければ、その力が評価されることはありません。スポーツの才能にしても、仮に今我々が知っているのとはルールも道具も全く異なる競技が盛んな時代・社会に生まれたら、何の成果も挙げられない可能性があります。

能力が能力として認められるのは、それが「社会的に広く共有された価値観」に適う性質だからです。そして価値観というものは一般に、人間が社会的な関係を歴史的に積み重ねる中で築き上げてきたものです(ヒトの生物学的性質に根ざしているような部分もあるにはあるでしょうが)。個人が持っている1つ1つの性質は、それ自体が「能力」なのではなく、それが社会的な文脈に置かれ、価値観に照らされることによってはじめて「能力」として意味づけられるわけです。

そう考えると、能力は特定の個人が持っているものではなく、人と人の「間」に生まれるものだと言ってもいいでしょう。能力主義や自己責任論の全てを否定をする必要はありませんが、このように弁えておくことで、強者が威張ったり弱者が蔑まれたりすることも少なくなるのではないでしょうか。

2 古文・漢文教育の意義

ところで、このような発想をとっておくと、たとえばネット上でもたびたび話題になる「古文や漢文の授業は必要か?」という問題についても、一つの回答を得ることができます。高校までで習う古文・漢文の知識が、「能力」として何かの役に立つことがあるのか否かということですね。
今月に入ってからもこの話題が一部で盛り上がり、文藝春秋のサイトには以下のように、「役に立つ場面が色々ある」と主張する記事も掲載されていました。

「漢文は社会で役に立たない」と切り捨てる“意識高い系”の勝ち組へ――あえて「ビジネスシーンで役立つ漢文」を考えてみた

上の記事の各論にはあまり同意できないものもありますが(「あえて」書かれたものですから細かいことは申し上げなくていいでしょう)、私も確かに、古文・漢文の知識が直接的に役に立った経験はいくつかあります。たとえば企業で仕事をしていると法律を調べなければならない場面は多々あって、古い法律や昔の判例を読むと当たり前ですが古い言い回しが多用されており、高校古文程度の文法の知識を持っていないと自然には読めないわけです。
また、例えば数学者の岡潔が数学の難問に取り掛かる前に松尾芭蕉一門の俳句の研究をしていたのは有名で、意外なところで古典文学的感性が発想力に結びつくこともあるようです。

ただ私は、古文・漢文の知識が何かの役に立つ場面を考えることよりも、そもそも「役に立つ」とはどういうことなのかを決める「価値観」の形成において、古文・漢文をはじめとする人文学的教養が効いてくるのだ、と理解することが大事だと思います。

「役に立つ」というのは、何かの目的を達成するための手段として使えるということです。しかし何を目的として生きるかというのは、個人にとっても社会にとっても、(生理的欲求の充足を除けば)あまり自明ではありません。先ほどの話と同じで、社会的・歴史的・文化的な積み重ねの上に価値観というものが築かれて、はじめて「どのような人生を送るべきか」「どのような社会を作り上げるべきか」という目的が定まるわけですね。

価値観そのものを出鱈目に形成することもできなくはないでしょうが、ある程度安定性のある価値観というものは、我々人間(国民)がどのような社会的・歴史的文脈を生きているのか、あるいは生きて来たのかについて、なるべく包括的な理解を得ようとする努力の上に形成されるものでしょう。そしてその努力の典型が、人文学的教養というものだと私は思います。(私は、知識それ自体よりも、努力するプロセスや姿勢のほうを教養と呼びたいと思います。)

だから「古文・漢文の知識なんて社会で役に立たないんじゃないか」という問いに対して、「こういう仕事なら、能力として役に立つことがある」と答えようとするのは、ある意味ナンセンスなところがあります。そうではなく、「役」や「目的」の何たるかをめぐる認識や議論を豊かにするためにこそ必要な教養というものがあって、古文・漢文の知識もその一部なのだ考えておくほうが、この論争に対する見通しは良くなるのではないでしょうか。

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