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【浜崎洋介】「暴力」についての質問にお答えします。

From 浜崎洋介(文芸批評家) 

 先日、久江鶴造(48歳)さんから、「暴力」についてのご質問を頂きました。
 質問の内容を要約すれば、「世間一般的に暴力は感情」の問題であり、それは「知性でコントロールするものと言われて」いるが、しかし、それは逆なのではないか? むしろ、「暴力の9割以上は知性から生み出されている産物」だと思うのだが、果たしてどうだろうか、というものでした(質問の全文は、文末に掲載しておきます)。

 私自身、長年塾で小中学生を教えてきた経験もあり、また現在も、親として、あるいは教師として、子供や学生と対峙しながら、ときに彼らに「力」を振るわざるを得ない状況に立ち至ることもあり、久江さんの質問には、他人ごとではない問題性を感じました。
 そこで今回は、「暴力」をコントロールするものが、なぜ「知性」ではなく「感情」だと感じられるのか、その辺りのことについて、少し堀し下げて考えてみたいと思います。

 「暴力」というのは、読んで字のごとく、「力が暴れる」事態を指しています(英語のviolenceの語源であるラテン語のviolentiaも、「激しさ・猛烈さ」や「暴行」の意味があります)。が、注意するべきは、私たちが「暴力」と聞いて嫌悪を感じるのは、「力」(force)そのものに対してではなく、この「力」が「暴れている」状態に対してだということです。つまり、「力」には、「暴れている力」と「暴れていない力」、あるいは、「抑制が効いていない力」と「抑制が効いた力」との二種類があるということです。

 たとえば、マックス・ウェーバーが「近代国家」を定義して、「ある領域の内部で、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタルト的(事実的で共同的)な支配団体である」(『職業としての政治』、括弧内引用者)と言ったのは有名ですが、この場合、ウェーバーの言葉で重要なのは「正当な」の一言でしょう。

 ここで、ウェーバーが「正当な物理的暴力」という言葉で名指しているのは、「軍隊」と「警察」のことですが、実際、私たちは「テロ集団」や「暴力団」の暴力行為と、「軍隊」と「警察」の実力行使とを区別していますし、また、その限りで、「正当な力」と「正当ではない暴力」との違いを無意識にでも知っていると言うことができます。

 では、この「正当な力」と「正当でない暴力」とを分けているものとは何なのか。
 一言で言えば、その違いは、「力」が単に二人称的な地平で使用されているのか、それとも三人称的な地平を媒介した上で使用されているのかという一点に尽きます。

 たとえば私刑(リンチ)やDVの場合が分かりやすいですが、それらの「力」は、A→Bという形で直接的に振るわれています。が、軍隊や警察の「力」、あるいは教育現場などで教師が振るう「力」の場合は、必ず、A→X→Bという形の間接性を伴っています。つまり、ある「力」の行使において、その「正当さ」と「不正当さ」とを分けているのは、この「X」という三人称的な媒介項の有無だということになります。

 具体的に言いましょう。
 たとえば、私はときに学生を怒鳴ったり、どんなに懇願されても単位を出さなかったりすることがありますが、その際に、たとえば私と学生との間に何の媒介項(約束)もなく、二人称的な関係しかなかったとしたら、私が振るった「力」は、単に一方が一方の欲望を抑圧するために振るった「暴力」として現れるしかないでしょう。

 しかし、もし私と学生との間に、一つの約束(人格形成を含めて、学生の学びに関わるのが教育だという暗黙の了解)が存在しており、その約束に従った上下関係が作られていれば、そこで行使された「力」は、「教育的指導」という大義名分を伴ったものになり得ます。つまり、振るわれるべくして振るわれた適切な「力」として現れることができるのです。

 もちろん、その約束は常に明文化されているとは限りませんから、その「力」の「正当性」を担保しているものは、最終的に「常識」だということになります。が、いずれにしろ、その「力」が正当だと感じられている限り、その裏には必ず、他者との共同生活を営むために設けられた第三人称的な「約束」が介在していると言うことができるでしょう。

 とすると、「暴力」の性格について、次のようなことが言えるのではないでしょうか。
 すなわち、私たちが忌避し、嫌悪している「力」(すなわちviolence)とは、常に三人称的地平(約束)を媒介にしていないものであり、それゆえに、他者との関係を無視しているか、あるいは、他者との関係を壊すようにしか働かないものなのだと。

 それに対して、私たちが受け入れている「力」(すなわちforce)とは、暗黙にでも三人称的な地平(約束)を媒介にしているものであり、それゆえに、他者との関係を織り込んでいるか、あるいは他者との関係を守るためにこそ振るわれているものなのだと(しつこいようですが、だから「ウシジマくん」が振るう力は単なる暴力ではないのです(笑))。

 さて、ここまでくれば、久江さんが、「知性」ではなく「感情」こそが「暴力」をコントロールする主体だと感じている理由も見えてくるのではないでしょうか。

 というのも、三人称的地平(約束)を媒介しようとする意志、つまり、他者との関係を守ろうとする意志というものは、他者を交換可能なモノとしてコントロールする「知性」ではなく、逆に、他者を他者として感じる心、他者との関係を、一つの掛け替えのない信頼関係として作りあげたいという「感情」によってこそ支えられているものだからです。

 しかし、その意味で言えば、「体罰」や「戦争」と聞けば、臭いものには蓋とばかりに、それを否定する戦後の風潮は改められなければなりません。「わたしたちは無垢と暴力のあいだで選択しなければならないのではない。異なった種類の暴力のあいだで選択しなければならないのである」(『ヒューマニズムとテロル』)とメルロ・ポンティが言う通り、「力」そのものは善でも悪でもない私たちの「宿命」であり、その限りで問われるのは、むしろ、「時・処・位(立場)」(熊沢蕃山)に応じた「力」の用い方なのですから。

 いや、だから、その「力」を適切に振るう経験を忘れれば忘れるほど、私たちは「力」に対する距離感(コントロール)を失っていくのです。「平和主義」が蔓延する現代において、しかし、ヒステリックな「力の暴発」が目立ってくるのも故なしとはしません。

 果たして、久江さんのご質問に上手く答えられたかどうかは分かりませんが、以上を、私からの答えとさせていただければ幸いです。長々と失礼しました。

【ペンネーム久江鶴造さん(男性、48歳、自営業)からのご質問】

暴力について質問させて頂きます。

世間一般的に暴力は感情(感性)であり知性でコントロールするものと言われていますが私は逆だと思っています。知性にも大小様々な視点、論点はありますがそれをすべて踏まえれば暴力の9割以上は知性から生み出されている産物であります。

例えば今、問題視されているDVを論ずれば、暴力を振るった加害者のほとんどが「ついカッとなって」とあたかも感情(感性)を言い訳なごとく、感性の安売りをしているのをよく見掛けます。ではこの人達の論理が本当ならば、己より体力のあるゴリゴリの男にも同じ事をしているのでしょうか ?  まずありえません。つまり感情で咄嗟的に動いたのてはなく、これまでの観察による知性の蓄積を使い勝敗を予測しその土台の上で咄嗟的判断を下しているのにすぎません。

では、知性の暴力を知性でコントロールすればどう言う論理になるか。よく耳にするのが「己が損をする」であります。そこには法的並び社会的地位などの外圧的、損得の話です。ならば己にそれを越える力、つまり権力があれば暴力は正当化される論理に行き着くだけであり、それを実行しているのが米国です。米国の戦争の歴史をみれば一目瞭然。

今の日本の問題は感情(感性)を蔑ろに考え言い訳のツールに低下させている事ではないでしょうか。又、高度な知性をもたず低俗な知性を感情(感性)と履き違、黄門さんの紋所の様に振りかざしている輩も同様。感情(感性)の暴力とは母が子を守る神聖なものだけです。

先生方は暴力をどの様にお考えですか。

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