毎週メルマガをお送りしているのに、これだけ世間を騒がせている森友学園問題について触れないというのも気持ちが悪いので、簡単に触れておきたいと思います。
ただ私は、この森友学園問題について、あまり真面目に議論する気が起きないというのが正直なところでもあります。理由は2つあって、1つは政治においてもメディアにおいても世間においても、騒ぎ方の方向性が当初からズレがちで、筋道の通った議論になっていなかったこと。もう一つは、今話題になっている「文書の書き換え問題」も、「恐るべき巨悪による策謀」というよりは、むしろ笑ってしまうような馬鹿げたものであると感じるからです。
まず騒ぎ方がズレているという話からすると、最初にそう感じたのは、1年ほど前に籠池氏の証人喚問が行われた頃です。もともとこの問題は、
・森友学園が新たに学校を設置するための土地を国から賃借又は購入するというプロセスにおいて、契約の方式や価格が、不当に森友学園に取って有利な内容となっていたのではないか?
・私学設置の妥当性を大阪府が判断するに当たり、私学審議会においていったん「認可保留」となった1ヵ月後に急転して「条件付き認可適当」となったことには合理性がないのではないか?
という2つの問題から成っていました。そうであれば、本来は、
(1) まず、土地取引や私学認可判断のプロセスが妥当なものであったかどうか
(2) それらが不当な内容であったならば、誰に責任があるのか(形式上は恐らく役所の事務方でしょう)
(3) 形式上の責任とは別に、外部から政治家等の圧力があったのかどうか
という順番で議論を積み重ねるべきだと思うのですが、去年の今頃どういう話になっていたかというと、(1)も(2)もすっ飛ばして(3)の問題ばかりを論じていたわけです。しかもどうやら明確な圧力や指示はなさそうだから、「忖度」という曖昧なものをめぐって言い争っていたのでした。
そうした中で「安倍首相が籠池氏に100万円を寄付した」という話も登場しました。私は4時間ぐらいある籠池氏の証人喚問の映像を全部見ましたが、この証人喚問でも「100万円」問題が中心に取り上げられ、ただひたすら「安倍夫妻と籠池氏は仲良しであったか否か」を議論する異様な光景になっていました。ついでに言うと、証人喚問の実施を提案する理由について、自民党の竹下国対委員長(当時)が記者会見で「首相に対する侮辱だから」と答えていたのも異様でしたね。
さらに遡ると、たしか去年の2月の終わりから3月上旬にかけてだったと思いますが、教育勅語論争がありました。森友学園で教育勅語の暗唱が行われていた件と、稲田防衛大臣(当時)と籠池氏の間に面識があったという件をからめて、社民党の福島瑞穂氏が国会で大臣に対し教育直後についての見解を問うたところ、大臣は「道義国家を目指す」という「勅語の精神」の核の部分については現代にも通用すると答弁し、この答弁が2〜3週間にわたって論争の的になりました。
しかし振り返ってみると、100万円問題も、教育勅語論争も、多くの人にとっては「そういえばそんな話もあったな」程度であまり記憶にも残っていないように、なんであんなに騒いでいたのかよくわからないものです。100万円問題のほうについて言えば、仮に事実であったとしても、学校を建設しようとして寄付金を集めている知り合いに100万円を寄付する行為自体は、公選法などに抵触する形でなければ問題はないわけです。そんな問題よりも、土地取引等に不正があったのかどうかをまず議論するのが普通でしょう。
(ちなみに、土地取引については昨年11月に出た会計検査院の調査報告において、廃棄物量その他の算定において「慎重な検討を欠いていた」等の評価が下され、ようするに手続きがいい加減であったことの確度が高まりました。しかし私学審議会の判断が合理的であったかどうかについては、現時点ではイマイチ明らかになっていませんね。)
そして今、「公文書の書き換え」が大きな話題となっています。これから佐川前理財局長の証人喚問等が行われる予定だとされており、今の時点で「誰の指示だったか」等の真相を内部事情を知らない私が予想しても仕方ありませんが、書き換え文書を見る限りは局長の国会答弁と整合性を取るために財務省が修正したものではないかという印象を受けました。
しかしだからといって、私は「財務省はとんでもない役所だ」と怒る気にもならず、どちらかというと笑いたくなりました。というのも、まさかここまで程度の低い不正をするとは思っていなかったからです。政治家による指示や、政治家との口裏合わせや、政治家への忖度が仮にあったとしても、そのことよりも私はこの不正の姑息さのほうに目が行ってしまいます。
ニセの文書を国会に提出するのが「悪いこと」であるというのは、財務省の官僚も、政治家もメディアも世間も、皆分かっていることですから、今さら指摘する必要もないでしょう。また、仮に財務省の判断で行われた書き換えであったとして、中央省庁が自省の「省益」を追求するという姿勢そのものは古くから批判されてきたものであって、今さら驚くようなことではありません。一般論としても、組織を守るために悪事をはたらくことそれ自体は、もちろん悪事ですから褒められたことではないのですが、動機は理解しやすいし珍しいものでもないでしょう。
今回の文書書き換えで驚くべきなのは、動機や目的がいかがわしいというよりも、その「手段」があまりにも陳腐で不合理であるという点ではないかと思います。発覚した際の影響の大きさや発覚の可能性を見定めることもできていないわけで、要するに財務省には合理的な「悪事」を考える能力も、それを完遂する能力もなく、あるいは(それが一部の特殊な職員の手によるものだったとして)チェックによって押さえ込む能力もなかったということです。
そうなると、財務省だけなのか周辺の政治家等も関係しているのかは措いておくとして、今回の文書書き換えは「巨悪による恐るべき策謀」というよりも、この問題をめぐる政治や行政のプロセス全体が「地に足の着いていない」状態、つまりフワフワと宙に浮いたようになっている中で、何となく生み出されてしまった事態なのではないかという印象を受けます。安倍首相でも財務省でも良いのですが、分かりやすい「悪玉」がどこかにいるならまだ救いようがあります。しかしシステム全体が弛緩したり劣化したりしていることの結果だとすれば、誰と戦えば良いのかも分からず、非常にやっかいです。
民間企業でも、私がサラリーマン時代に経験したり見聞きしたりした限りでは、コンプラ違反やそれに類するものは、もちろん一部の「悪人」によりなされるケースもあるものの、組織全体がフワフワと緩んだ状態になっている中で起きていることが多かったように思います。と言うか、そうでなければ、1人や2人の「悪人」が居ようが、それが組織のトップであろうが、ルールに抵触する行為はどこかの段階で組織的なチェックに引っかかります。もし森友問題をめぐる不正な行為も同様の背景から生まれたものであるとするならば、「政治・行政機構がなぜ、フワフワした、地に足の着かないものになってしまったのか」というのは、森友問題それ自体よりも重要なテーマとなり得ます。
今日ここで論じる余裕はありませんが、例えばひょっとすると、90年代以降(正確には80年代のリクルート事件で「政治とカネ」の問題が注目を浴びたのが始まりですが)立て続けに行われてきた「政治改革」「行政改革」「構造改革」といったものに遠因があるのかもしれません。例えば、これらの改革の過程で、選挙制度や中央省庁の組織構成も変更され、大きな傾向としては分散化していた権力が首相周辺に「集中」される流れになりましたが、そのことが日本的組織の「皮膚感覚」のようなものに合っていないのかも知れません。
そうした重要なテーマは、機会があればまた『表現者criterion』等でも論じていきたいと思います。
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