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【浜崎洋介】「真らしいもの」を見極める力―「クリティカ」と「トピカ」

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 先週は、財務省の「公文書改竄」問題に関連させて、「自発的隷従者」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)の心性と、それに抵抗する「思考」の問題を提示しておきました(「悪の陳腐さ」について――財務省文書改竄事件に思う) 

 ただ、自分で自分に注釈するのは気が引けますが、先週のメルマガで最も強調しておきたかったのは、「自発的隷従者」の心理もさることながら、「全体主義」からの「自立」を考え続けたアーレントが、なぜ「他者との『親密さ』、あるいは他者との『共通感覚』を守ることによって、自らの『思考』を守り続けようとした」のかという点でした。

 というのも、この「共通感覚」に支えられていない「思考」とは、あのチェスタトンの「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」(『正統とは何か』)という言葉を引くまでもなく、ほとんど「論理的我意」と変わらないものになってしまうからです(実際、アイヒマンの行為は、「目的合理性」の点では一貫して合理的だったと言えます)。

 では、「共通感覚」とは何なのか――今回のメルマガでは、私たちの「自立」を支えている、その「共通感覚」のことについて、少しだけ考えておきたいと思います。
 そこで、まず思い出されるのが、デカルト的「知性」に対する最初の批判者として知られているイタリア人、ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)の言葉です。

 「青年たちにあっては、長じてからの実生活において奇妙で異常な結果にならないように、できるだけ早く共通感覚〔常識〕(sensus communis)が育成されるべきである…。ところで、知識が真理から、誤謬が虚偽から生まれるように、共通感覚は真らしいものから生まれるのである。確かに、真らしいものは、あたかも真理と虚偽の中間物のようなものである。そうして、ほとんど一般的に真理であり、きわめてまれにしか虚偽にならないのである。したがって、青年たちは共通感覚が最大限教育されるべきであるから、われわれのクリティカによってそれが彼らにおいて窒息させられないように配慮されるべきなのである。」『学問の方法』岩波文庫、村上忠男・佐々木力訳)

 そして、ヴィーコは、この「クリティカ」というデカルト的知性に先行する「共通感覚」のことを、アリストテレスやキケロに倣って「トピカ」と名付けたのでした。
 デカルト的な「クリティカ」にとって、「知識とは確実にして明証的な認識のことであり、真らしく見えるものは、ただそう見えるにすぎないものとして」排除されるのに対して、ヴィーコは、その「真らしいもの」を、「論拠(目的)の在り場所の発見にかかわる術」、つまり「トピカ」の力として重視したのでした(上村忠男『ヴィーコ』)。
 簡単に要約すれば、「クリティカ」が、「目的」が定まった後の論理的「判断」(推理)の手続きを重視するのに対して、「トピカ」は、「目的」そのものの「真らしさ」を見極める「常識」(コモンセンス)を重視していたと言うことができます。

 では〈共通感覚=常識〉とは、具体的にどのような姿をしているのか。
 もちろん、ここで、その詳細を語りつくすことはできません。が、今回は、そのおおよその輪郭を示すため、レトリックの「真らしさ」について例を挙げて話を進めたいと思います(詳しくは、中村雄二郎『共通感覚論』などを参照していただければと思います)。

 たとえば「甘い」という言葉は、そのままであれば、個別感覚=味覚に密着した記号でしかありません。が、それが一度「共通感覚」を媒介すると、それは、「甘い音色」(時間感覚)や、「甘美な情景」(空間的感覚)などのように、文脈に応じた比喩的な表現に応用することができるようになります。そして、さらには「甘言にのってはいけない」とか、「あの人の芸はまだまだ甘い」とか、「人に甘えてはいけない」などといった、人の「生き方」や「振る舞い方」に対する倫理的判断にまで応用がきくようになるでしょう。

 もちろん、この比喩的な表現は、分析的で論理的な「クリティカ」の言葉ではありません。が、この個別感覚を超えて、それらを文脈によって比喩的に結び付けていく「トピカ」の力を失ってしまえば、私たちは、その人の「生き方」を味わうことのみならず、「時と所と立場」に応じて適切な倫理的判断を下すことさえ難しくなってしまうでしょう。

 実際、いつどんな時でも「真面目」であることは価値にはなりません。ただ、どのような「対象」(目的)に対してどのように「真面目」であるのかだけが重要なのです。そして、その文脈の適切さを見極める力のことを、ヴィーコは「トピカ」と呼んだのでした。

 しかし、それなら、「トピカ」を「窒息」させ、ただひたすらに「クリティカ」の養成にばかり目を向けてきた日本の教育体制のなかから、「生き方」に対する感受性や、倫理的判断力を失った「エリート」が生まれてきたのだとしても、不思議はないでしょう(それは、昨今の大学改革でより酷くなっているような気がしてなりませんが…)。

 いや、だから私は、もちろん「官僚」のことだけを言っているわけではないのです。戦後七十年以上の「平和」を享受し、そこに敷かれたレール(目的)を疑ったこともない日本人の多くが、まさに「トピカ」なき抽象的「個人」、チェスタトンの言う「理性以外のあらゆる物を失った人」に堕してしまったのではないのかと言いたいのです。

 そういえば、そんな抽象的「個人」について、アーレントは書いていました、「動物的な五感を万人に共通する世界に適合させる感覚とは共通感覚のことであったが、この感覚を奪われた人間はとは、所詮、推理することのできる、そして『結果を計算する』ことのできる動物以上のものではない」(『人間の条件』志水速雄訳)と。

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