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【浜崎洋介】〈意味=エゴイズム〉からの距離―「共通感覚」を甦らすために

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 こんにちは、浜崎洋介です。
 前回は、ヴィーコの議論を援用しながら、デカルト的「クリティカ」(推論・論理)に先行する「トピカ」(共通感覚・常識)というものの力について触れておきました。
 とはいえ、さすがに文字数の問題もあって、私のなかでは消化不良の感じも残っています(笑)。ということで、この際、乗り掛かった舟です。大きな事件でもない限り、しばらくは、この「共通感覚」についての議論を続けたいと思います。

 前回、「共通感覚」の例として、味覚である「甘い」と言う言葉が、一つの文脈を超え、時間空間感覚(甘美な音楽、甘い情景)や、人間論(あの人は人に甘い)にまで応用される「レトリック」の例を見ておきました。つまり、「共通感覚」とは、一つの文脈(ルール)に従って、その意味を確定していく力と言うよりは、むしろ、一つの文脈(ルール)を超えて、その意味を多様な文脈に開いていく力だということができます。

 では、そもそも「意味」とは何なのか。
 それを考えようとしたとき、たとえば『存在と時間』の「意味論」が参考になります。決して難解な議論ではありません。ハイデガーは「意味」について、それを将来(時間)に対する自己配慮に基づいて導き出される「道具連関」の問題として考えました。

 たとえば、明日、雨が降るとします。すると私は、雨に濡れることを避けるために屋根を作ろうとします。そして更に、屋根を作るために材木を集め、材木を組み立てるためにトンカチや釘を購入しようとするでしょう。こうして、全ての道具は、「~のために」といった性格を担いながら互い互いを意味連関させていくことになるのです。

 なるほど、釘が「意味」を持つためにはトンカチと木材との関係が必要ですし、木材や釘が「意味」を持つためには釘との関係が必要になってきます。そして、何より重要なのは、そもそも、それらの道具は、私が雨に濡れないために呼び出されていたということです。つまり、それら意味連関の起点には、必ず「自己」への配慮、言い換えれば、自分を未来へと企投していく「エゴイズム」が見出さるのだということです。

 ところで、ここで同時に思い出しておきたいのは、「共通感覚」とは、一つの文脈を超えて「意味」を多様な文脈に開いていく力だったということです。しかし、だとすれば、ハイデガーの議論を下敷きとしたとき、「共通感覚」とは、「意味」の起源にある「自己配慮」を括弧に入れる力だと言うことができるのではないでしょうか。つまり、一つの〈意味=自己配慮=エゴイズム〉を超えて、自らの言葉を多様な文脈(他者)に開いていく力、それを私たちは「共通感覚」と呼んでいるのではないかということです。

 ただ、「エゴイズムを超える」などと言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、よくよく考えてみれば、それは私たちが日常的に生きている行為でもあります。
 たとえば、私たちが「意味」に疲れた時に何をするのかを考えてみましょう。私たちが仕事に行き詰まったり、他者関係に行き詰まったりしたとき、あるいは、漠然と「世間」というものに疲れてしまったときに何をするのかを反省してみればいいのです。

 そんなとき、私たちは、しばしば旅に出たり、運動をしたり、美術館や映画館に出向いたり、メルマガを読んだりしながら(笑)、気分を変えようとするのではないでしょうか。あるいは、昔馴染みの友人と飲んだり、家族とゆっくり過ごしたり、「仕事」を括弧に入れながら同僚と飲んでみたりすることも、選択肢の一つかもしれません。

 なるほど、それらの行いは、単なる「~ために」性に還元できる行為ではありません。その行為自体が一つの目的だと言ってもいい。実際、旅や飲みは、時間とお金の浪費だと言われればそれまでですし、功利主義の観点から言えば、お金まで払って映画館で涙を流すなどというのは不条理この上ない行為だということになります。そして、「家族」など、人生にとってのお荷物以外の何物でもないということにさえなってしまうでしょう。

 しかし、そう言ってしまったが最後、私たちは「意味という病」に囚われてしまうのです。一つの文脈に固執しながら、自らの〈エゴイズム=意味〉それ自体の息苦しさに窒息してしまうでしょう。そして、その結果として、言葉を多様な他者(文脈)に開いていく力、つまり、他者と共に生きるための〈共通感覚=常識〉を失っていってまうのです。

 しかし、翻って考えてみたとき、現代日本の中心にあるものこそ、この「意味という病」であると言えはしないでしょうか。限定なき資本主義(市場原理主義イデオロギー)そのものが「エゴイズム」によって駆動されていることは言うまでもありませんが、それを無抵抗に受け入れてしまっている現代人において、この「エゴ」への固着は、ほとんど身動きが出来ないほどまでに強固になってしまっているように見えるのです。

 政治で言えば、「保守なら反朝日」で、「リベラルなら反安倍」だといった決まり文句自体が、一つの「意味」に囚われた硬直性を示していますし、社会で言えば、「常識」を失った不安をマニュアルで埋め合わせようとして、その結果、ますます他者感覚(共通感覚)を失っていくという悪循環も一つの現代病であるように見えます。

 とすれば、今、まさに私たちに必要なのは、自覚的に〈意味=エゴイズム〉から距離をとってみるということではしないでしょうか。少なくとも私は、この「自己」に対する距離にこそ、「共通感覚」を甦らせるヒントがあると考えています。

 果たして、今回も紙数が尽きてしまいました。続きは、また来週ですね(笑)。

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